人気ブログランキング | 話題のタグを見る
足利市の銀閣と美人弁天
渡良瀬川自転車道と歴史の町・足利探訪ポタ編・第3回


足利市の銀閣と美人弁天_c0081462_20392651.jpg
「銀閣のそっくりさん」


「織姫神社」の南を通る道には「トンネル通り」という名前がついています。
正確な由来はわかりませんが、町の東寄りにある「助戸大橋町」「助戸東山町」にまたがるトンネルに通じているからかな?と。
ちょっと変わったニックネームですね。

さて、「織姫神社前交差点」から「トンネル通り」を東へ進み、1つ目の信号を左へ曲がります。
「逆さ川」に沿って伸びる細い道は北への一方通行。
徒歩は歩道があるのでいいのですが、車道はかなり細いので通行には注意が必要です。

この道を約400mほど進むと、左手に「法楽寺」(ほうらくじ)への入口があります。
コースガイドの中で「京都」の名所の1つ「銀閣」にそっくりな建物があるとのことなので、
どんな感じなのか見てみたくて立ち寄ってみました。


表紙の写真は、その「法楽寺」の「本堂」です。
確かによく似ていますね。
ところが創建は「法楽寺」が1249年に対してモデルとなった「銀閣」は1489年と、なんと200年以上も後のこと。
あまりにも時代がちがいすぎますね(^^;

実は現在の建物は1982年(昭和57年)に建て替えられたものなんだそう。
それなら納得!

「曹洞宗 正義山 法楽寺
 正義山法楽寺は、足利義氏によって建長元年(一二四九)に草創された。
 法楽寺の山号と寺号は義氏公の法名「法楽寺伝正義大禅門」に因る。
 天文年間(一五三二~五四)の火災後、法楽寺は開山太岫玄修和尚によって
 弘治三年(一五五七)、曹洞宗として再興される。
 その後正徳二年(一七一二)二代足利藩主戸田忠囿は、法楽寺を戸田家の菩提寺としたが、
 万延元年(一八〇六)再度の火災を被ってしまう。
 足利の伝説「片葉の葦」は、法楽寺山門外にあった「阿弥陀ヶ池」にまつわるものである。

※案内板より引用、以下同じ


正義山 法楽寺
慈照寺@Wiki


blogram ランキング参加中!よろしければクリックをお願いします。
blogram投票ボタン









足利市の銀閣と美人弁天_c0081462_20393874.jpg
「本堂」前の階段左にあるのが「茶釜塚」
でも石碑が置かれているだけだったので、詳細はわかりません。


足利市の銀閣と美人弁天_c0081462_20394480.jpg
右手の建物の破風部分には「足利家」の家紋がありました。


足利市の銀閣と美人弁天_c0081462_20395169.jpg
その建物の前から「本堂」を眺めます。
この角度が一番きれいに見えるかな?
屋根のてっぺんにある「鳳凰」の像も再現されていますね。


足利市の銀閣と美人弁天_c0081462_20395754.jpg
下から軒下を見上げると色は2色と少ないものの、なかなか派手な意匠になっているのがわかります。


足利市の銀閣と美人弁天_c0081462_2040310.jpg
境内の左手は墓地になっています。
その奥に「足利義氏」の墓所がありました。
ちなみに「義氏」は「足利家」の3代目当主であり、「室町幕府」の初代将軍「尊氏」は5代目の孫(ひ孫の孫)にあたります。

「足利義氏墓所
 足利義兼の子で鑁阿寺一山十二坊を整備した佐馬頭(さまのかみ)義氏の墓所である。
 法楽寺は建長元年(一二四九)義氏の創建で、晩年の義氏はここに隠棲して余生を送った。
 当時は門前に広大な阿弥陀池があって蓮が植えられてあったという。
 法楽寺本堂南側、鎌倉から室町時代にかけての五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)の部分が
 数多く並ぶなかひときわ大きい五輪塔が義氏の墓所と伝えられる。
 高さ一.〇六m、塔の組合せは不揃いで、台石の上に地輪と水輪を重ね、その上には宝篋印塔の笠と相輪をのせている。
 水輪には梵字一字が彫り込んであり、これは鎌倉期のものと思われる。」



足利市の銀閣と美人弁天_c0081462_20401061.jpg
「法楽寺」を出て、次は「鑁阿寺」(ばんなじ)へ向かおうと「逆さ川」沿いに道に出ます。
すると道の向かいに「美人弁天」と書かれた看板がありました。
そこには「「美人証明」を出す日本で「たった一つ」の神社」なる文字も。
一体どんなものなのか、気になったので行ってみることに。


足利市の銀閣と美人弁天_c0081462_20401668.jpg
「法楽寺」から500mほど北に進むと、左手にちいさな神社がありました。
道沿いには「美人の国足利」と書かれた大きな看板と「美人証明書」の見本が。


美人弁天.com


足利市の銀閣と美人弁天_c0081462_20402299.jpg
「太鼓橋」の手前から眺めてみると、見た目は小さな神社という感じです。
鳥居の「扁額」には「厳島神社」の文字が刻まれていました。
でも通称は「明石弁天」(あけし)というようですね。

「足利七福神 弁財天 明石弁天
 明石弁天は、長尾七弁天の一つといわれ、昔この地に清泉の湧く池があったので、
 ここに奉祀されたと伝えられている。
 寛政五年(一七九三年)の建築で通称明石弁天といわれている。
 明治四十三年に、天満宮を合祀。昭和十一年に境内地を拡張し、本殿上屋などを新築した。
 昭和二十年八月戦災で社務所を焼失したので、昭和三十年再建した。
 両崖山麓の逆さ川沿いにあり、地元の信仰厚く、水の神、芸術、開運財宝の神として、
 昭和初期の足利七福神の一つに選ばれていた。」



足利市の銀閣と美人弁天_c0081462_20402954.jpg
参道左の建物の前にこんな看板が。
ここ以外でも市内のお店などで受け取ることもできるようですね。


足利市の銀閣と美人弁天_c0081462_20403793.jpg
こじんまりとした「社殿」。
その右手には「美人弁天」の由来が書かれていました。

「心のやさしい美人弁天のいわれ
 本城の地に住む八重は、短命の家系に生まれ、自分の家にまつわる言い伝えに悩み苦しみ、悲嘆にくれていました。
 十八歳を過ぎたある日、旅の先達様が通りかかり、お茶を一杯出しながら、身の上話をしました。先達様は
 「この地に清泉の湧く池があり、そこに弁天様が祀られています。
  その弁天様に百日お参りすれば、あなたの人生はきっと変わりますよ。」
 と言い残して旅立っていかれました。
 八重は先達様の言葉を信じ、毎日毎日、弁天様に心を込めて、一心に祈りを続けました。
 お参りを始めてちょうど百日目、一人の若者に出会い、夫婦になりました。
 七人の子宝にも恵まれ、先達様がいわれたように八重の人生は変わりました。
 弁天様のご加護のもと、世の悲しみも苦しみも越えて、幾年月を経て、八重は多くの孫たちに囲まれ、「健康」にも恵まれ、
 楽しく心豊かな人生を送ることができました。
 悩み苦しんだ短命の言い伝えは八重の代で終止符を打ち、「長命」を授かりました。
 八重は幸せの中で「美しい」人生を送り、百二歳の天寿を全うしました。
 そして、弁天様の「護符を胸に」在世に感謝しつつ、八重は「光鳥の黄泉の国」へと旅立ちました。」



足利市の銀閣と美人弁天_c0081462_20404399.jpg
境内にある「弁財天」の像のうちの1つ。
「美人弁天」というだけあって、とても美しい像ですね。


すべて D700+24-120mmF4G/VR


次回は、雪輪町を経由して鑁阿寺へと向かいます。
by sampo_katze | 2012-04-14 22:35 | with Brompton | Comments(0)


<< 足利陣屋跡と鑁阿寺 足利の縁結び社 >>