人気ブログランキング | 話題のタグを見る
東海道本線の秘境駅跡と天下分け目の古戦場跡をめぐる
垂井から彦根へ~関が原越えポタリング編・第1回


東海道本線の秘境駅跡と天下分け目の古戦場跡をめぐる_c0081462_22355812.jpg
「朝霧の美濃太田駅」


9月16日(日)。
この日はまず「美濃太田駅」から次に宿泊地「彦根」へと移動します。
そこでポタリングに不要な荷物を置いて身軽になってから再び移動し、かつて「中山道」57番目の宿場町だった「垂井」(たるい)へ。
そこから「Brompton」に乗って西に向かい、「関が原」を越えて「彦根」を目指します。
このコースは雑誌「自転車と旅 Vol.3」に掲載されていたもので、スタートを少し東の「垂井駅」に変えています。
個人的に興味があるポイントが1か所あってそれを追加したためです。
かなりマニアックな場所ですけどね(^^;


表紙の写真は、前日の雨の影響で朝霧に包まれた「美濃太田駅」の構内です。
時刻は05:49。
かなり早いですが、それも06:03発の「岐阜行」に乗るため。
それでも途中2回の乗換えを経て「彦根駅」に着くのは07:42と結構かかります(^^;

ほんとは前日のうちにできるだけ移動しておきたかったんですが。
事前に調べたところ「長良川鉄道ポタ」の走行距離が80kmを越えていて、ゴールの時間が決まっていると
何かと大変になりそうだなと考えました。
また途中の「美濃市」「関市」で町歩きもしたいと考えていて、これだとさらに時間がかかりそうでしたので。
もっとも実際は前回レポートしたとおり、にわか雨のために「美濃市駅」の手前で打ち切りになってしまったんですけどね(^^;


blogram ランキング参加中!よろしければクリックをお願いします。
blogram投票ボタン









東海道本線の秘境駅跡と天下分け目の古戦場跡をめぐる_c0081462_22362836.jpg
「彦根駅」で荷物を下したら、折り返しまずは1駅目の「米原駅」へ。
さらに乗り換えて「垂井駅」へと戻ります。

ここは「名古屋」方面の上り列車の発着する7・8番線ホーム。
下り方の屋根はどこかレトロな雰囲気の柱が使われていました。

「東海道本線」はこの駅を境に東は「JR東海」、西は「JR西日本」と分かれているため、普通列車はここで乗換えが必要になります。
ただし下りは早朝の3本、上りの夜間3本に限り「JR西日本」の列車が「大垣駅」まで乗り入れ運転されています。
夜間に到着した列車が翌朝の列車に充当されるんですね。

ところでこの駅は「よねはら」と誤読されることが多いですが、「まいばら」(Mai-Ba-ra)です。
また駅の住所はかつて「まいはら」(Mai-Ha-ra)でした。
ですが、市制施行の際に駅名に合わせて「米原町」(まいはらちょう)から「米原市」(まいばらし)へと変更したんだそう。
少々ややこしいですが(^^;

米原市@Wiki


東海道本線の秘境駅跡と天下分け目の古戦場跡をめぐる_c0081462_22364625.jpg
「米原駅」から約30分で「垂井駅」へ。
駅舎は1995年(平成7年)3月に造られたものですが、何をイメージしたのかはよくわかりません(^^;

上りホームから2階の改札口へエレベータを上がり、再びエレベータでコンコースから北口へと下りました。
どちらも「ウォークスルー」タイプだったんですが、コンコースから乗ったときなぜか既視感が。
実はこの北側にあるエレベータは「ホーム~改札間」と「コンコース~北口間」で同じエレベータを使っているんですね。
これはホームが線路に挟まれていると実現できませんが、なかなか面白い仕組みだな~と。

垂井駅@Wiki


東海道本線の秘境駅跡と天下分け目の古戦場跡をめぐる_c0081462_2237870.jpg
言葉の説明ではわかりづらいと思うので、図で示すとこんな感じ。
コンコースからエレベータに乗ると、目の前に改札に出るときに見たばかりの光景が広がるので一瞬あれっ!?
って思うんですよ(^^;


東海道本線の秘境駅跡と天下分け目の古戦場跡をめぐる_c0081462_22372151.jpg
「垂井駅」で「Brompton」を組み立てたらいざ出発。
駅から2.5kmほど走ると住宅などが少なくなり、のどかな風景が広がります。


東海道本線の秘境駅跡と天下分け目の古戦場跡をめぐる_c0081462_22373432.jpg
かつて「新垂井駅」があったところは事前に調べてありました。
ただ廃止されたのは1986年(昭和61年)11月で四半世紀ほど前のこと。
当駅へのアクセス道も残っておらず少々苦労しましたが、線路沿いに桜らしき木が並んでいるところを発見!
そこに行ってみることにしました。

新垂井駅@Wiki


東海道本線の秘境駅跡と天下分け目の古戦場跡をめぐる_c0081462_22374983.jpg
駅は廃止されましたが、ホームはそのまま残っているようです。
また線路も使われていて、「しらさぎ」をはじめとする特急列車や貨物列車がこちらを通過しています。

また、ここは下り線のみなので線路は単線です。
というのも本線である「垂井駅」経由は25‰(パーミル)=1000m進んで25m上るという急勾配。
もっともこの数値だけではピンとこないとは思いますが、ちょっと具体的に伝えられないので省略(^^;

現在の車両ではなんなく越えられるところですが、「蒸気機関車」で通過するのは困難。
そのため「補機」と呼ばれる機関車のサポートを受ける必要があり、連結のための時間がかかります。
また、通過できる車両の重量にも制限がかかってしまいます。
そこで勾配のゆるい迂回路線を造ることになり、その途中に「新垂井駅」が設けられました。
開業は「太平洋戦争」の真っ只中、1944年(昭和19年)10月11日 のこと。
輸送力増強が急務だった時代ですね。

でも駅ができたものの、来る列車は当然ですが関ヶ原・米原方面の下り列車のみ。
上りの岐阜・名古屋方面に行くには一度下り列車に乗って「関ヶ原駅」に行き、折り返してこなければなりません。
その不便さゆえに利用者は減少していき、ついには廃止となりました。

駅が廃止になった現在も貨物列車などがこちらのルートを使うのは機関車への負荷軽減ためなのかもしれませんね。
こちらの最大勾配は10‰だそうですから全然ちがいます。
単純計算でも半分以下の傾斜になるんですからね!


東海道本線の秘境駅跡と天下分け目の古戦場跡をめぐる_c0081462_2238667.jpg
さて「新垂井駅」からは「県道53号線」「国道21号線」の北を通る農道を経由していきます。
道はいいし、その割りに車が少ないのでとても快適な道でした。
そのまま道なりに進めば「関ヶ原駅」まで出られるんですが、「東海道本線」の上下線が合流する手前で南へ。
「関ヶ原バイパス」を横断し、その先にある「一ツ軒交差点」を左に曲がって、200mほど進んだところに「桃配山」があります。
ここは「関が原の戦い」において「徳川家康」が最初に陣を張った場所です。
小高い丘のようになっていて、階段も設けられているので上がることもできるようです。
でも暑いのでパスしましたが(苦笑)

なお「徳川家康」がこの場所を最初陣の地としたのは「壬申の乱」(じんしんのらん)における故事にあやかったからのようです。
上り口の傍らには山の名前の由来が記されていました。

「桃配山
 天下をわける壬申(みずのえさる)の大いくさは千三百年ほどまえであった。
 吉野軍をひきいた大海人皇子(おおあまのおうじ)は、不破の野上に行宮(あんぐう)をおき、
 わざみ野において、近江軍とむきあっていた。
 急ごしらえの御所に、皇子が入ったのは、六月の二十七日である。
 野上郷をはじめ、不破の村びとたちは、皇子をなぐさめようと、よく色づいた山桃を三方(さんぽう)にのせて献上した。

 「おお、桃か。これはえんぎがいいぞ!」

 皇子は、行宮(かりのみや)につくがはやいか、桃のでむかえにあって、こおどりしてよろこんだ。
 くれないのちいさな山桃を口にふくむと、あまずっぱい香りが、口のなかいっぱいにひろがる。
 皇子は、はたとひざをたたき、不破の大領(だいりょう)をよんだ。

 「この不破の地は、山桃の産地であるときく。なかなかあじもいい。
  どうだろう。わたしはこの桃を、軍団兵士(もののふ)みんなに一こずつ配ってやりたい。戦場における魔よけの桃だ。
  これをたべて戦場にでれば、武運百ばい。もりもりとはたらいてくれよう。
  大領、この近郷近在の山桃をすべて買いあげ、軍団兵士みんなに、わたしからの桃だといって、配ってくれ。」

 大領、宮勝木実(みやのすぐりこのみ)は、胸をうたれて平伏した。木実は行宮所在地の大領(郡長)として、
 御所をたて、皇子をおまもりしている。

 「ありがたいことでございます。戦勝につなぐえんぎのいい桃。兵士のいのちを守る魔よけの桃。
  天子(てんし)さまからたまわった尊い桃。
  全軍の兵士はもちろん、村のものたちも、涙をながしてよろこび存分のはたらきをしてくれるでありましょう。」

 このとき、木実が確信したとおり、この桃をおしいただいた数萬の将兵の士気は、いやがうえにもたかまり、連戦連勝、
 ついに大勝を果したのであった。
 この桃の奇縁により、この桃を配ったところを桃配山(ももくばりやま)とか、桃賦野(ももくばりの)とよんで、
 いまにつたわっている。
 九百年のあと、徳川家康は、この快勝の話にあやかって桃配山に陣をしき、一日で、天下を自分のものとした。」

※案内板より引用

「壬申の乱」については下記リンクに詳しくわかりやすく書かれています。
学習「壬申の乱」@飛鳥の扉


東海道本線の秘境駅跡と天下分け目の古戦場跡をめぐる_c0081462_22382737.jpg
「国道21号線」を2km弱進むと最寄りの「関ヶ原駅」です。
「垂井駅」をスタートしてから約10kmの道のりでした。
ただ「新垂井駅」跡に興味がなければここからスタートすることをオススメします(笑)


東海道本線の秘境駅跡と天下分け目の古戦場跡をめぐる_c0081462_22384235.jpg
駅を出て左側にある「おへそ」
ここには「レンタサイクル」があります。
古戦場跡をめぐるならぜひ利用したいところですね。
歩いても行けなくはないですけど、「関ヶ原合戦決戦地」までだけでも片道1.5kmほどあります。
さらにほかにもいろいろ回るとなると・・・・・・(^^;

さて、駅前からは西側にある跨線橋を越えて北へ進みます。
道なりに600mほど進むと右手に「関ヶ原町役場」、その斜向かいに「関ヶ原町歴史民族資料館」があります。
公式サイトには観光ルートも紹介されているので、それと合わせて訪問するとより一層楽しめそうですね☆

関ヶ原駅前Webショップおへそ
関ヶ原町歴史民族資料館


東海道本線の秘境駅跡と天下分け目の古戦場跡をめぐる_c0081462_22385892.jpg
「資料館」から北西へ1km弱のところに「関が原の戦い」の「決戦地」があります。
ここはその少し手前から撮ったもの。
右端の幟が立っているところが「決戦地」、左手前の小山が「石田三成」の陣地だったところです。


東海道本線の秘境駅跡と天下分け目の古戦場跡をめぐる_c0081462_22391173.jpg
「決戦地」を示す石碑。
一段高くなったところに立てられています。

「決戦地
 西軍有利な陣形で臨んだ戦いでしたが、小早川(こばやかわ)と脇坂ら四隊の裏切りは、たちまちにして戦況を一変させました。
 小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の敗色が濃くなり、各軍の兵士の浮き足立つなか、
 石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦いました。
 笹尾山を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです。」


合戦に至る経緯や合戦当日の過程については簡潔にわかりやすく解説されているこちらで。
(わかりやすい)関ヶ原の戦い


東海道本線の秘境駅跡と天下分け目の古戦場跡をめぐる_c0081462_22392478.jpg
石碑の前から古戦場跡を眺めます。
周囲を山に囲まれた盆地なんですね。
そばにある田んぼは早くも収穫が終わっていました。


東海道本線の秘境駅跡と天下分け目の古戦場跡をめぐる_c0081462_22393957.jpg
「石田三成」陣地から北に少し行くと「神明神社」という小さな神社と「平和の杜」という公園があります。
その西側は「小西行長」の陣でした。


東海道本線の秘境駅跡と天下分け目の古戦場跡をめぐる_c0081462_22395298.jpg
その一角に放牧されている「ヤギ」
ここ「関ヶ原」では「耕作放棄農地の除草対策と獣害対策のため」(「やぎ工房」HPより)に飼育しているんだそう。
こんな環境でのんびりゆったりと育っているので、取れる「ヤギ乳」もおいしいんでしょうね。
それを使った名物が「ヤギ乳アイス」で、取り寄せもできるようです。

手づくりジェラートの店 やぎ工房may!may!


東海道本線の秘境駅跡と天下分け目の古戦場跡をめぐる_c0081462_2240695.jpg
最後はそのすぐ南に立つ「開戦地」の石碑。

「開戦地
 慶長五年九月十五日、霧が薄くなり視界も広がった午前八時。
 先鋒の福島正則(ふくしままさのり)は井伊隊の旗の動くのを見て、先陣の手柄を取られてなるものかと、
 宇喜多(うきた)隊に一斉射撃を浴びせました。
 一方井伊隊も福島隊におくれまいと、島津隊の陣に向かって攻撃を開始し、合戦の火蓋が切って落とされたところです。
 (標柱の位置は北寄りに移動)」



すべて D700+24-120mmF4G/VR


次回は、中山道の旧道を通って岐阜県から滋賀県へと入ります。
by sampo_katze | 2012-11-20 22:40 | Brompton+西日本 | Comments(0)


<< 中山道の旧道を通って岐阜・滋賀... 美並・美濃市・関をめぐる・・・... >>