白河駅前にある城へ
郡山出張2017のオフタイム・後編


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「駅のホームから眺める」


2週目の週末は仕事が順調に進んだこともあり、土日の2日間を休みにしました。
直前までどうなるか微妙だったのですけど(^^;
そしてこの週末は前週とちがって天気は良さそうなので、出かけないのはもったいないですね。

「郡山駅」から西に足を延ばせば「会津若松」がありますが、こちらは昨年訪問済み。
そして東には東日本有数の「鍾乳洞」である「あぶくま洞」があり、後半に合流した若手の同行者が訪問した模様。
週明けにその話を聞いて「そこがあったか!」と思いましたね。
で、わたしはどうしたかというと土曜は「仙台うみの杜水族館」に足を延ばしました。
そのときの様子は次回からアップします。

そして日曜は「白河」(しらかわ)へ。
「郡山駅」から普通列車に乗って35分で「白河駅」に到着します。
そして駅前にある「白河小峰城」(こみねじょう)へと向かいます。


表紙の写真は、「白河駅」のホームから眺めた「小峰城」です。
ちょうどこの日は「桜まつり」が開催されていて、遠目にもにぎわう様子がうかがえました。
石垣の上にそびえるのは御三階櫓という実質的な「天守」です。



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ホームから改札口への通路を進むと、こんなパネルが。
「白河市」公認キャラクターの「しらかわん」
でも調べてみると、このほかに2人?のキャラクターもいるようです(^^;


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こちらが駅舎。
「ステンドグラスのある赤瓦の屋根の大正ロマン漂う駅舎」ということで「東北の駅百選」に選ばれているそう。
ただこの駅舎がいつ建てられたものかはわかりません。

「白河駅の駅名由来
 白河の地名は、古関跡の下を流れる「白川」という小川に由来するという説と、アイヌ語で"自陣"を指す「シラガー」という言葉が
 転訛したというふたつの説があり、古くは「白川」と表記されていました。
 その名が歴史に登場するのは、元正天皇の霊亀2年(716)、この地方に白川、石背(いわせ)、会津、安積(あさか)、信夫(しのぶ)の
 五郡からなる石背国が置かれたことが初めと思われます。また、聖武天皇の神亀5年(728)には「白河軍団」が置かれたとあり、
 このとき「白河」の地名が世に出た始めと言われております。
 そして文治5年(1189)、結城朝光氏が奥州藤原氏討伐の功により、源頼朝から白河庄を与えられ、
 さらに興国元年(1340)、結城氏5代・親朝が小峰ヶ丘に土塁の小峰城を築き、市街地の形態が整ってきました。
 「都をば 霞とともに たちしかど  秋風ぞ吹く 白河の関」(能因法師/後捨遣和歌集)の古歌も、白河を有名にしたもののひとつです。
 この地名の由来を受けて、明治20年(1887)7月16日、東北本線が当地に開通した時、白河駅が開業しました。」

※説明板より引用、以下同じ


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駅舎は南側にありますが、城は駅の北側にあります。
そのため駅舎を出たら左手に進み、線路の下をくぐっていきます。
入口周辺はご覧のようにかなり立派な外観になっています。


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線路下の通路にはさまざまな掲示がされています。
これは「東日本大震災」による「小峰城」の石垣の被害状況を示したもの。
上空からの写真では10か所ほどで石垣の崩落が見られます。
下段の3枚は「白河駅」のホームから見える南面石垣の修復の様子。


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地下通路を抜けると、満開の「桜」が出迎えてくれました!
でも「小峰城」の中の桜はもう少し時間がかかりそうでした。
ちょっと残念。


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「白河小峰城」の入口。
先に書いたとおり「桜まつり」が開催されていたので、ここを入ると露店がたくさん並んでいました。
できれば普段通りの状態で見たかったところです。
なので写真がありません(^^;

「国指定史跡「小峰城跡」
 指定 平成22年8月5日  指定面積 124,114.84㎡  構造 梯郭式平山城
 小峰城跡は、南北朝期の興国・正平年間(1340~69)頃に結城親朝により築城されたのが始まりとされます。
 現在に残る石垣造りの城郭は、寛永4年(1627)に初代白河藩主となった丹羽長重が寛永6年(1629)より約4年の歳月をかけて改修したものです。
 丹羽氏以後、松平(榊原)・本多・松平(奥平)・松平(結城)・松平(久松)・阿部といった徳川譜代・親藩の7家21代の居城として、
 また奥州の関門としての役割を担いましたが、慶応4年(1868)の戊辰戦争白河口の戦いにより焼失落城しました。
 明治以降、城郭はその多くが民間への払い下げとなりますが、本丸を中心とした範囲は陸軍省の所管となり、
 のち明治26年(1893)に白河町に払い下げられました。
 本丸・二之丸を中心とした範囲は、城郭遺構を活かした都市公園としての整備が進められ、平成3年(1991)には三重櫓、
 平成6年(1994)には前御門が発掘調査の成果と絵図の記載をもとに木造で復元されています。
 そして、小峰城は奥州の関門としての歴史的重要性や今なお本丸・二之丸を中心とした範囲に、石垣や堀といった遺構が良好な状態で
 残されていることが高く評価され、平成22年(2010)に国の史跡に指定されました。」



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復元された南面の「石垣」。
ここは「国指定史跡」に指定されているため、崩落した「石垣」を適当に積むわけにはいきません。
ですが天災による崩落のため、元の積み方がわからないという難点がありました。
そこで崩落前に撮影された写真や書物などを参考に、様々な試行錯誤を行って復元をしたとのこと。
「白河小峰城 石垣復旧工事」で検索すると出てきますよ。


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南面石垣の前にある坂を上りつめると「前御門」が出迎えてくれます。


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「前御門」をくぐり抜けると広場が広がっています。
ここは「本丸御殿跡」で、城の中心となる建物があったと考えられています。
説明によれば707畳もあったとのこと。
これは概算で1300㎡、建物の平面が正方形だとすると36m四方になります。
う~ん、確かに広いんですけどでも何だかピンときません(^^;

「本丸御殿跡
 本丸の平坦地には、御本城御殿(本丸御殿)と呼ばれる建物が存在していました。
 写真の絵図(注:当ブログでは掲載していません)は、松平定信の藩主時代の文化5年(1808)に作成された
 「白河城御櫓絵図」(しらかわじょうおやぐらえず)中の「御本城御殿平面図」で、奥に「御小書院」、
 中央部に「御月番(月交替の担当家老の部屋か)」「御奉行」などが見えることから、藩主の居所と政庁を兼ねていたと考えられます。
 また、「御書院」では家臣を集めた申し渡しなども行われていたようです。
 建物の規模や外観などは分かりませんが、同じ頃と考えられる別の御殿絵図によれば畳数は707畳とあり、
 かなりの大きさだったことがうかがえます。」



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「本丸御殿跡」の南西端から「三重櫓」と「前御門」を眺めます。
この主要な建物は震災でも影響がなかった(?)のは幸いでした。


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「三重櫓」に桜を添えて。
花は五分咲きといったところでしょうか。

「三重櫓跡
 本丸の北東隅に建つ三層三階の櫓で、小峰城の中心となる最も規模の大きな櫓です。
 高さが約13メートル、一階が約12メートル四方、二階が約8メートル四方、三階が約4メートル四方の正方形となっています。
 外観は黒塗りの板を張った「下見板張」(したみいたばり)で、耐久性が高いとされます。
 北側には、張り出して「石落とし」が設けられているほか、南側と西側にも張り出した土間が設けられ、西側の土間に出入口があります。
 屋根に飾られる鯱(しゃち)は高さ約1.2メートルです。
 一般的に、櫓は武器などを保管する保管庫の役割を果たしていたことから、この三重櫓も同様の役割を果たしていたことが推測されます。
 また、白河藩瓦師の家に伝来した資料から、三重櫓に使用する瓦は1万3千枚を超える膨大な数だったことが分かります。」



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「三重櫓」の内部へ。
震災後はしばらく立ち入ることができませんでしたが、2015年(平成27年)4月19日に「小峰城復興式」を開催。
その式後から再び入城することができるようになったそうです。
ただし、内部の階段はご覧のような超が付くほどの急勾配!
築城当時のままなので当然ですが、昇降には十分注意が必要です。
また窓はとても小さいため、外の眺めはあまりよくないこともつけ加えておきます(^^;


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最上層に上がって上を見上げると、1枚の札が掲げられていました。
これは「棟札」(むなふだ)と呼ばれるもので・・・・・あとは説明でどうぞ!
なお札には「奉造小峰城三重櫓一宇 平成三年四月吉日」と書かれています。

「棟札
 棟木(むなぎ)に打ち付ける板で、建築自体に構造の月日、修理の記録、建築にかかわった工匠(こうしょう)などの
 名を残しておくために用いられる。なお同様の目的で書かれたものには棟木銘、梁上銘もある。
 棟札は板に墨書したもので、棟木に打ち付けるか、内陣など保存の良い場所に置いた。
 ※棟木銘とは、直接棟木に墨書したもの。梁上銘とは、禅宗建築に用いられ、銘を書いた板を梁下に打ち付けた。」



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「三重櫓」の北西側からの眺め。
窓からも見えるんですが、写真を撮るには不向きなのでこちらで撮影しました。
「東北新幹線」の高架と、雪を頂いた「那須連山」の姿がやや霞気味ながらも見えました。


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そこから下を眺めたところ。
西面の石垣は現在も修復工事が行われていました。
ここの修復は来年1月末頃までかかる見込みとのことです。


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「小峰城」から「白河駅」に戻りましたが、昼前後なので宿に戻るには早すぎます。
そこで「JRバス」「磐城棚倉」行きに乗って「南湖」(なんこ)へ。
ここは国内初の「公園」とされています。
湖畔からも「那須連山」は見えたんですが、あいにく日が陰ってきてしまいました。
春なのでしかたないですが、もっとスキッとした青空のときに来たかったですね。

「士民共楽を今に伝える南湖の歴史
 南湖は、享和元年(1801)に白川藩主松平定信によって築造されました。定信は、大沼という湿地帯のしゅんせつ(注)と
 「千世の堤」と呼ばれる堤の土木工事を行い、周囲の山々が映り込む湖を造りました。塀や柵などを設けず、
 いつでも、誰でもが風景を楽しめる場所とし、武士や民衆も共に楽しむことができる「士民共楽」(しみんきょうらく)の
 理念をかなえました。江戸時代の庭園は、大名などが自らの楽しみのために造るのが常で、民衆にも開放された
 庭園(公園)としては先駆けとなるものでした。
 南湖は行楽のみならず、湖水は水田に水を引き込むためのため池にもなっており、湖の西・南・東側には
 藩校立教館(りっきょうかん)運営のための新田がひらかれました。また、南湖の造営自体、生活が苦しかった
 領民を救済する事業を兼ねていました。築造後は、異国船来航時の警備に備え、藩士の操舟や水泳訓練を行いました。
  注:しゅんせつ・・・河川や運河などの底面をさらって、土砂などを取り去る土木工事のこと。」



2枚目 iPhone5S
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次回から新シリーズ、仙台うみの杜水族館編です。
by sampo_katze | 2017-06-23 21:00 | 東北 | Comments(0)


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