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中山道の旧道を通って岐阜・滋賀の県境へ
垂井から彦根へ~関が原越えポタリング編・第2回


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「旧道の入口・東側」


「関ヶ原」の古戦場を後にして先に進みます。
「開戦地」の碑が立つところから小道に沿って南へ向かい、「国道21号線」との交差点へ。
そこから西へと伸びる「中山道」の旧道を走ります。

「中山道」は「江戸時代」に整備された「五街道」の1つ。
「江戸日本橋」を起点とし、「東海道」とは対照的に内陸部を通って「京都草津」へと至る道です。
途中に「碓氷峠」「和田峠」などの峠越えがあり、特に「和田峠」は最大の難所とされていました。
というのも標高差は約500mある上に冬季となると降雪も多く、しかもこの前後にある「宿場町」は5里半も離れていました。
通常「宿場町」の間隔は約2里前後とのことですから倍以上です。
このため途中に避難所や茶屋が設けられていたんだそう。
現在はその名残りが「東餅屋」「西餅屋」「接待」などという地名として残っているようです。

余談ですが、「和田峠」というとつい「八王子」にある方を思い浮かべてしまいます。
こちらもある意味難所ですからね~。
もちろんわたしは通ったことがありませんし、チャレンジしてみようとも思いませんが(苦笑)


表紙の写真は、「国道21号線」の「松尾交差点」南にある「中山道」旧道入口です。
この先の道はかなり細くて驚きましたが、考えたら昔から残る道だと考えれば妥当なんですよね。


中仙道
中山道 地図・資料編
関ヶ原観光Web
中山道@Wiki
和田峠(長野県)@Wiki



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入口から300mほど進むと左手に「不破関」(ふわのせき)の「関守」(せきもり)を務めていた家があります。
こちらはその先にある分岐点。
分かれ目に立つ石碑には「左 旧中仙道」と記されています。
でもその奥には「200m先工事中」「う回路」の看板も。
さらに結構な下り坂になっていて、さらにその先の道で上りがあるのでは?なんていう思いが(^^;
なので、とりあえず右の平坦な道のほうを進むことにしました。

「美濃不破関(みのふわのせき) 東山道(とうさんどう)と東城門跡(ひがしきもんあと)
 美濃不破関のほぼ中央部を東西に東山道が通り抜けていた。
 関のここ東端と西端には城門や楼(ろう)が設けられ、兵士が守り固めていた。
 日の出とともに開門、日の入りとともに閉門された。
 また、奈良の都での事変や天皇の崩御(ほうぎょ)など、国家的な大事件が起きると、
 中央政府からの指令によって固関(こげん)がおこなわれ、すべての通行が停止された。」

「不破関跡(ふわのせきあと)
 東山道の美濃不破関は、東海道の伊勢鈴鹿関(いせ すずかのせき)、北陸道の越前愛発関(えちぜん あらちのせき)とともに、
 古代律令制下の三関(さんげん)の一つとして、壬申の乱(じんしんのらん・六七二年)後に設けられたとされています。
 延暦八年(七八九)に停廃(ていはい)されて後は関守(せきもり)が置かれ、平安時代以降は、多くの文学作品や紀行文に
 関跡の情景がしきりと記されてきました。」



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国道沿いにある「不破関資料館」
発掘調査によって発見された土器や瓦、「和同開珎」(わどうかいちん)の展示や、関の復元模型など
様々な資料が展示されています。

関ヶ原町歴史民族資料館
※こちらのサイト左に表示されるコンテンツ「不破関」で詳しく紹介されています。


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「資料館」から500mほどは国道を通ります。
「関跡」まで戻って旧道を通ってもいいんですけど、面倒だったもので(^^;
で、国道を渡って再び旧道に入り400mほど進みます。
すると右側に「東海道本線」の下をくぐる小さなトンネルのようなものが見えました。
レンガ造りでかなり古いもののようです。
手前にある案内看板によると、この川は「黒血川」というんだそう。

「黒血川(くろちがわ)
 壬申の乱(六七二)で、ここ山中の地では両軍初の衝突が起きています。
 七月初め大友軍は精兵を放って、玉倉部邑(たまくらべのむら・関ヶ原町玉)を経て大海人軍(おおあまぐん)の側面を衝く(つく)
 急襲戦法に出てきました。
 しかし、大海人軍はこれを撃退、その後この不破道(ふわのみち)を通って近江(おうみ)へと出撃して行ったのです。
 この激戦で、両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから、この名が付き、その時の凄まじい様子を今に伝えています。
 この川は、青野ヶ原(あおのがはら)や関ヶ原の戦い等、古来軍事上 屡々(しばしば)使用されてきました。」



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近づいてみると「426K052M2 黒血川橋りょう」の表記が。
トンネルではなく橋だったんですね。
ということは、かつてここは川だったのを「暗渠」(あんきょ)にして道を通したということなんでしょう。
またこの橋の来歴はわかりませんが、この雰囲気からして開通当初からのものと思われ。
ちなみにこの区間が開通したのは1899年(明治32年)10月とのことです。
両側にある支柱は近年補強のためにつけられたものでしょう。

東海道本線@Wiki


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さらに500mほど進むと右手に小さな祠がありました。
近づいてみると「常盤地蔵」とあります。
「源義経」の母「常盤御前」を祭ったものだそう。

「常盤地蔵
 平安末期、此処山中村で起きた常盤御前の不幸な出来事は、涙なしには語れない。
 常盤は、
 「義経がそのうちきっとこの道を通って都に上る筈、その折には是非この道端から見守ってやりたい。」
 と、宿の主人に形見の品を手渡し息を引き取った。時に常盤四十三歳。
 主人は常盤の念願が叶うよう街道脇に塚を築き、手厚く葬ったのである〔右手下約三〇〇メートル先にあり〕
 其の後哀れに思った村人は、無念の悲しみを伝える常盤地蔵を塚近くのこの場所に安置し、末永く供養することを誓い合った。
 案の定寿永二年(一一八三)義経上洛のため弐万餘騎を率いて、当地若宮八幡神社に到着し、西海合戦勝利を祈願。
 合わせて母の塚及び地蔵前では、しばしひざまずき、草葉の陰から見守る常盤の冥福を祈ったという。」


常盤御前@Wiki


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「黒血川橋りょう」から1km足らずのところにある「登里橋りょう」
東京からの距離は「426K759M75」とあります。
小さいながらも立派なレンガ造りになっていますね。
付近にはこのような構造の橋が多く存在するようです。


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そのすぐ先にある踏切。
ここで「東海道本線」は下り線と上り線で少し離れた別ルートを通ります。
また旧道はその線路の間を通っていきます。


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踏切から約250mのところにある下り線の「今須トンネル」、「427K136M 延長302M」。
ここの入口もかなり立派です。


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「今須トンネル」の出口近くにある「国道21号線」と「旧中山道」との合流地点。
「松尾交差点」付近から旧道経由で約2.5kmの道のりでした。
ここから約150mほど国道を進んだら、左斜め方向に分岐する「県道229号線」から旧道へと入ります。
ほんのつかの間の下りですが、またすぐ上り基調になります(^^;


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そして旧道を走ること2km弱で「岐阜県」「滋賀県」との県境に到着します。
中央に見える小さな川のようなところが県境。
どちら側にもそれを表す標柱が立っていますね。


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「滋賀県」側にある「初代標柱基礎石」
ということは、今立っているのは2代目ということでしょうか?


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道の北側にある「寝物語の由来」の石碑。

「寝物語の由来
 近江と美濃の国境は、この碑の東十メートル余にある細い溝でした。
 この溝を挟んで両国の番所や旅籠があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話し合えた」ので寝物語の名が生まれたといわれています。
 また、平治の乱(一一五九)後、源義朝を追って来た常盤御前が「夜ふけに隣り宿の話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも
 「源義経を追って来た静御前が江田源蔵と巡り会った」所とも伝えられています。
 寝物語は中山道の古跡として名高く、古歌等にもこの名が出ていますし、広重の浮世絵にもここが描かれています。

 ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の
  寝物語も しのぶばかりに
   大田道灌
 」



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県境から道なりに1kmほど進むと両分岐する場所があります。
旧道は左に曲がって「東海道線」の踏切を渡るようですが、逆に右に曲がります。
すると程なく右側に「白清水」(しらしょうず)と書かれた看板があります。
説明を見ると、「醒ヶ井」(さめがい)という地名の由来となった「居醒の清水」(いさめのしみず)を指しているように見えます。
でもここから「醒ヶ井」までは少々距離があり、またそちらにも清水があるのでちょっとちがうのかも。

「白清水(しらしょうず)
 小さな泉で、古くより白清水または玉の井と呼ばれています。
 『古事記』に、倭建命(やまとたけるのみこと)が伊吹山の神に悩まされ、この泉で正気づいたとあり、
 また、中世仏教説話『小栗判官照手姫』(おぐりはんがんてるてひめ)に、姫の白粉(おしろい)で清水が白く濁ったことから
 白清水というようになったとあります。」


居醒の清水@Weblio辞書


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のぞいてみると水量はかなり少なそうです。
昔はこんこんと湧き出していたのかもしれませんが、ちょっとさみしいですね。


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次回は、伊吹せんろみちを訪ねます。
by sampo_katze | 2012-11-22 21:00 | Brompton+西日本 | Comments(0)


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