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築地のもう1つの顔?
地下鉄に沿って走ろう!東京メトロ日比谷線編・第6回


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「ビルに富士」


今回は「茅場町」(かやばちょう)からスタートです。
この辺りは江戸城築城の頃は「茅」(かや)が生い茂る場所だったそう。
当時は「茅葺き屋根」が一般的で、その材料になる「茅」を扱う商人がいたことからこの地名がつけられました。
となりの「人形町」は「浄瑠璃」や「人形芝居」の「人形遣い」が多く住んでいたことが由来だとか。

ほかにも沿線には「御徒町」「小伝馬町」「神谷町」と「町」のつく駅名が5つもあります。
このうち「御徒町」のみが「まち」で、ほかの4駅はいずれも「~ちょう」と読みます。
この使い分けは江戸時代に「まち」は武士が住む「町」、「ちょう」は庶民が住む「町」と区分したからだそうです。
そういえば庶民のことを「町人」と書いて「ちょうにん」と呼びますが、「まちびと」とは呼びませんよね。
ってことは、「まち」が少ない「日比谷線」は庶民派路線ということになるのかな?(^^;
ラインカラーは「シルバー」なんですが、イメージでは「グレー」とちょっと地味な印象ですし(笑)

ちょっと話がそれましたが、「茅場町」は「東西線」との乗換駅でもあります。
ここの駅はちょっと特殊で、それぞれのホームの先端同士がつながっているような構造になっています。
普通なら十字または丁字になるようにするんですが、駅のそばを流れる川がネックとなっているんだとか。
日本一混雑する私鉄との接続するだけに駅の改良が求められているようですが、
地下にあることや周辺のビルなどとの兼ね合いから難しいようですね。


表紙の写真は、「茅場町」近くのビルの壁面に書かれた富士山のタイル絵(?)です。
地図で調べてみるとこのビルは「白雪ビル」という名前のよう。
「白雪」は日本酒の銘柄の1つで「小西酒造」が造っているもので
キャッチコピーは「山は富士 酒は白雪」です。
この壁の「富士山」はそれにかけたものなのかもしれません。
推測でしかありませんが(^^;


小西酒造株式会社


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川に沿ってちょっと裏道に入ってみることに。
するとちょっとレトロな雰囲気の「第2井上ビル」というビルがありました。
最上階の屋根には瓦のようなものが乗っているところがちょっと変わっていて面白いですね(^^)
この裏は運河になっていて、南に架かる「霊岸橋」からの眺めもいいようです。
このときはそこまで頭が回りませんでしたが、機会があればぜひ見てみたいですね。


昭和レトロなギャラリービル <第2井上ビル>@プライスリーダー


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メインストリートの「新大橋通り」に戻って南下します。
途中「八丁堀交差点」付近にこんな古びた建物があります。
「新大橋通り」は「有楽町線ポタ」などで最後に「浅草」へと向かうときによく通るのですが、そのときから気になっていたところ。
建物の詳細はわかりませんが、1階にはお店が入り2階より上は会社の事務所となっているようですね。

ちなみに「八丁堀」とはその名の通り、江戸時代にこの地に造られた長さ「八丁」≒880mの堀が由来だそう。
現在は埋め立てられてその面影はなく、地名に名残があるだけです。


八丁堀(東京都中央区)@Wiki


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さらに南下し「築地駅」の少し北にある「入船橋交差点」へ。
ここは「有楽町線」「新富町駅」の真上にあたる場所ですが、ちょっと奇妙な構造物があります。
奥のほうに見えるトンネルのような出口からスロープが伸び、その横には2車線分の幅があります。
でも左手前には地下の換気口のようなものが見えていて、どうやら道ではなさそう。


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奥に進んで反対側へ。
「首都高速環状線」との分岐点に架かる「三吉橋」から眺めてみるとこんな感じ。
高速の出口から「新大橋通り」に伸びるスロープになっているんですが、その両側は一体?


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戻ってスロープの先、「新大橋通り」の東側をのぞいてみるとご覧の通り。
トンネルらしき大きな穴が見えます。

実はここ、未完成の高速道路の跡地なんだそう。
計画が中止になったので、この部分は公園になっています。
でも仮にこの道路ができたとしても、この直角コーナーはかなり危険なような気がしますが(^^;

ちなみにここの代わりにできたのが「レインボーブリッジ」のある「首都高速11号台場線」だそう。
代わり、というよりこちらが計画中止になった理由というべきでしょうか。


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「築地」界隈のマップ。
「生誕の地」「発祥の地」が意外と多いことがわかります。
これは明治になってから「築地」に「外国人居留地」ができたことも関係していそうですね。

ちなみに「築地」とは、本来は「埋立地」という意味なんだそう。
ここも江戸時代の「明暦の大火」で焼失した寺院を移転させるために造られたもの。
「関東大震災」とその後の復興に伴い、現在のような区画に整理されました。


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これは初代の「立教女学院校舎」をかたどったレリーフ。
1884年(明治17年)に完成し、同年から1897年(同30年)まで使用されたそう。

「立教女学院 築地居留地校舎跡(1882-1923)記念碑

 立教女学院は1877年キリスト教に基づく女子教育を目的に、米国聖公会より派遣された
 C.M.ウィリアム主教によって湯島に創立された。
 1882年立教女学院は築地居留地に移転して、新校舎を建設し、1923年の関東大震災までこの地にあって
 その教育事業を継続した。
 立教女学院のキャンパスは現在久我山にある。

 2007年11月1日 学院創立130周年」

※レリーフに書かれた説明文より引用


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「忠臣蔵」でおなじみの「浅野内匠頭」の屋敷跡。
「聖路加看護大学」の西側にあります。

正確には「内匠頭」は官名であって、特定の個人を指すものではありません。
でも「水戸黄門」もそうですが、役職名=特定の個人というイメージがありますよね(^^;

「常陸笠間(茨城県笠間市)藩主浅野長直(1610~72)は正保2年(1645)、播磨赤穂(兵庫県赤穂市)に領地替えとなり、
 5万3,500石を領して内匠頭と称しました。
 この長友の代に分与して5万石となります。
 ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯8,900余坪の地は、赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南2面は築地川に面していました。
 忠臣蔵で名高い浅野内匠頭長矩(ながのり、1665~1701)は、長友の子で、元禄14年(1701)、勅使の接待役に推されましたが
 3月14日、その指南役であった吉良義央(きらよしひさ)を江戸城中で刃傷に及び、即日、切腹を命ぜられました。
 この江戸屋敷および領地などは取り上げられ、赤穂藩主浅野家は断絶しました。」

※説明板より引用、年号などは算用数字に変換しています


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大きな石の上に開いた本が1冊。
ここは「慶応義塾開塾の地」を記念したものです。

「安政五年福澤諭吉 この地に学塾を開く
 創立百年を記念して 昭和三十三年慶応義塾 これを建つ

 慶応義塾の起源は一八五八年福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由来する。
 その場所はこれより北東聖路加国際病院の構内に当る。
 この地はまた一七七一年中津藩の医師前野良沢などがオランダ解剖書を初めて読んだ由緒あるところで、
 日本近代文化発祥の地として記念すべき場所である。」

※碑文より引用


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「聖路加国際病院」の南側にある「あかつき公園」
ここにはドイツ人医師・博物学者の「シーボルト」の胸像があります。
ずっとオランダ人と思ってたんですが、ちがうんですね(^^;

「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、オランダの商館医員として文政六年(一八二三)七月、
 長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍した。
 同九年正月、商館長と共に江戸へ向かい、三月四日、日本橋の長崎屋に止宿し、四月十二日出発するまでの間、
 江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。
 しかし、同十一年シーボルト事件が発生し、十二月に日本から追放された。
 後に安政六年(一八五九)幕府顧問として再来日したが、まもなく帰国しミュンヘンで没した。
 彼の江戸における指導は、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかった。
 この地が江戸蘭学発祥の地であり、且つ彼が長崎でもうけた娘いねが築地に産院を開業したこともあり、
 また明治初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が設けられていたことから、ここに彼の胸像を建て、
 日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。」

※説明板より引用

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト@Wiki


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最後は「築地教会」
一見モルタル建築のように見えますが、実は木造なんだそう!
しかも建設は昭和初期というのですからさらにオドロキです!

「築地一帯は、明治初期に外国人居留地に指定された。
 築地教会は明治7年(1874)に、パリ外国宣教会が居留地35番・36番を政府より借り受け、
 聖ヨゼフを守護聖人として設立したものである。
 明治11年(1878)から大正9年(1920)まで司教座がおかれた教会で、東京で最も古い教会の一つでもある。
 明治11年(1878)に献堂された旧聖堂は、ゴシック式赤レンガ造りであったが、大正12年(1923)に関東大震災で焼失。
 昭和2年(1927)に、木造2階建の現聖堂が献堂された。
 現聖堂は、当時の東京大司教であるレイ大司教の希望によりギリシア建築パルテノン型が採用され、
 正面にはドリス式オーダーが立ち並ぶ。
 明石町一帯は空襲をまぬがれたため、教会は戦災に遭わず、壮麗な姿を今に伝えている。」

※案内板より引用

ようこそ、築地教会へ!


すべて D700+24-120mmF4G


次回は、場外市場付近をちょこっとめぐります。
by sampo_katze | 2011-07-22 18:40 | Brompton+地下鉄 | Comments(0)


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