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さきたまの近代から古代へ
さきたまの歴史&沈下橋めぐり編・第2回


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「銘酒の醸造元」


「利根大堰」からは「利根川」沿いから離れ、「県道20号線」を南へと向かいます。
この道は「利根川」と「荒川」を結ぶ「武蔵水路」沿いにあるなかなか気持ちのいい道。
でも路肩が狭く交通量もやや多いのでちょっと気を使います。
地図を見ると対岸に小道があったので、そちらを走ったほうがよかったかも?

「秩父鉄道」の踏切を渡ってしばらく南に進むと「国道125号線」と交差するので、そこを右折して「行田市街」方面へ。
このまま国道沿いに進むのも面白くないな~、と思ったところ「長野一丁目」という交差点で国道は左にそれていきます。
まっすぐ伸びる道は一方通行の出口。
でも自転車は通行可能なのでその先に進んでみることにしました。


表紙の写真は、道すがらで見つけた「横田酒造」の建物です。
「秩父鉄道」「東行田駅」から南東に200mほどのところにあります。
窓や戸は新しいですが、建物自体は歴史を感じさせるものがあります。
屋根の上に立つ避雷針?もどこか洒落た形になってますし。
正面入口には「行田見所案内所」と看板が出ていたので、市内散策の前に立ち寄るといいかも?


彩の国の銘醸蔵 横田酒造株式会社


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「行田市駅」への道すがら、「忍城」の十五門の1つ「長野門跡」があります。
現在は小さな公園のようになっていますが、かつてはこの地域の物流の中心でもあったようです。

「長野口は、忍城の城下町行田の東北隅に位置し、長野御門が設けられて、忍城の北東の守りの拠点になっていました。
 戦国時代の天正18年(1590)に石田三成らの軍勢が忍城を攻めた際に、ここで激しい攻防戦が行われたことが
 『成田記』、『忍城戦記』、『関八州古戦録』などに記されていますが、これらが記されたのは、合戦から100年以上も後で、
 その内容をそのまま史実であると考えることはできません。
 その当時、長野口のある下町(しもまち)は愛宕神社の門前町として市が立ち、
 忍城開城後には遠く京都の宮津からも商人が訪れていました。
 忍川には船着場が設けられ、城下町行田の玄関口として人の行き来が盛んであったようです。
 江戸時代の享保13年(1728)に見沼代用水が開削されると、やがて船運が盛んになり、長野口は船着場として繁栄していきます。
 そして幕末には、長野口御門に番所や高札場が設けられるほどの賑わいをみせるようになりました。
 しかしながら明治維新後に長野口御門は取り壊され、船運も鉄道の発達とともに衰退して、かつての賑わいは失われてしまいました。」

※説明板より引用


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「行田市駅」前から南へと伸びる道を300mほど進むと「国道125号線」と交差します。
この交差点にあるのが重厚な建物を持つ「武蔵野銀行行田市店」です。
交差点にあるので信号がどうしても写ってしまうのが難点ですが。


「国登録有形文化財 武蔵野銀行行田市店店舗 
 平成17年11月10日登録

 この建物は、忍貯金銀行の店舗として昭和9年6月28日に竣工しています。
 彫りの深い近代復興式の鉄筋コンクリート造2階建ての本格的銀行建築で、
冬に北西から強い風が吹く行田の気候・風土を反映して西側には出入り口も無く、
 窓も東側に比べて極端に少ない造りになっています。
 外壁は当時流行のスクラッチタイル貼りで、本格的な歯飾りの軒蛇腹、繊細な装飾、
 格子の入った縦長の窓、その上に付けられたレリーフの入った円形の羽目板などが特徴的です。
 この建物は昭和19年に行田足袋元売販売株式会社売却され、戦後足袋会館として使われた後、
 昭和44年より武蔵野銀行行田支店となりました。
 埼玉県内で数少ない戦前の鉄筋コンクリート造の本格的銀行建築として、貴重な建物と言えます。」

※案内板より引用
 以下「」内の説明も同様



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「武蔵野銀行」からさらに「県道77号線」を南へ300mほど進むと、右手にレンガ造りの蔵があります。
こちらは「大澤商店」の蔵で、「行田市」では唯一のレンガ蔵だそう。

「大澤蔵

 「花形足袋」大澤商店の7台専蔵によって大正15年に建てられた、間口4.5間・奥行2.5間の2階建ての文書蔵です。
 行田唯一のレンガ蔵で、外面には登り窯で手焼きされた焼過レンガが、ていねいに積まれています。
 黒目のレンガと白い漆喰の対比がモダンな印象を与えます。
 内部も贅を尽くした造りとなっており、
 「建築が第一の趣味」であった7代専蔵のこだわりが感じられます。」



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沿道には当地を舞台にした「のぼうの城」のヒロイン「甲斐姫」の垂れ幕が。



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「国道125号線」に戻って西に進むと左手に「行田市郷土博物館」があります。
建物は「忍城」(おしじょう)の「御三階櫓」を模して造られたもので、1988年(昭和63年)2月の開館しています。

時刻はまだ10時前ですが、気温はすでに35℃近くまで上がってるのでは?と思うくらいの暑さ!
少し頭と体を冷やすため館内に入ります。


水城公園と忍城(忍城址)@公園へ行こう!
忍城@Wiki


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最上層からの眺め。
展望台となってはいますが、細い窓からなので見通しはあまりよくありません。
空気が澄んでいれば「秩父」の山並みなどがきれいに見えそうなだけにちょっと残念です。


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「博物館」を出て再び猛暑の中を走ります。
これは「市役所入口」の交差点にて。
「埼玉県名発祥の地 行田」と書かれていましたが、このときは「本当?」って疑ってました(^^;
交通安全の横断幕には「行田市」が誇るB級グルメのイメージキャラ「こぜにちゃん」「フラべえ」が描かれています。


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市役所から少し南に行ったところに「行田市民プール」があります。
中から水音が聞こえてきて、わたしも泳ぎたくなりましたね~(^^;

その敷地の南東角に「C57形蒸気機関車」が置かれていました。
屋外ですが保存状態はなかなか良好のようです。


「私は 蒸気機関車「C57 26」号です
 私たち「C57」型は形態が美しいことから「貴婦人」と呼ばれ、
 旅客列車用として合計201輌製作されました。
 私は昭和13年川崎車両(株)で生まれ、おもに「東海道」「東北」本線の花形コースを、
 持前の快速で客車を引いて、2,985,783km(地球を約74周半)を走り、
 昭和46年12月を最後に引退しました。
 私が引退した昭和46年は高崎線行田駅開業5周年にあたり、
 国鉄高崎鉄道管理局(現・東日本旅客鉄道株式会社高崎支社)のご協力により、
 行田市に迎えられ、ここで余生を送らせて頂いています。」

「「C57 26」の解説
 アルファベットは動輪の数を表し、Cは3軸、Bは2軸、Dは4軸です。
 Cは速度が速く、主に旅客列車用として活躍しました。
 Bは小型で、主に国鉄の工場y機関区などで、車輌の入れ替え用として、
 Dは馬力が大きく、主に貨物列車用として活躍しました。デゴイチで知られるD51もこのタイプです。
 5726の「57」は型式を表します。
 10~49はタンク機関車で、運転席のすぐ後ろに水タンク・石炭庫があり、
 50~99はテンダー機関車で、水・石炭を積んだ炭水車を、後ろに連結する機関車です。
 次の「26」は「C57型」の26番目に製作されたことを表します。」

※説明板より引用


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プール南の交差点を渡ると広がるのが「水城公園」(すいじょうこうえん)です。
城の周囲は沼になっていて廃城後はほとんどが埋め立てられましたが、その一部が公園の沼として残っています。

園内の沼のほとりでは釣りを楽しむ人がちらほらいました。
さすがにこの猛暑ですから、みなさん木陰で釣り糸を垂れています。


水城公園・忍城(忍城址)(行田市)@公園へ行こう!


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「水城公園」を離れ、次は「さきたま古墳公園」を目指します。
その道すがら、またレトロな建物がありました。

「行田窯
 木造2階建てのこの建物は、元は「穂国(ほこく)足袋」の商標で知られた荒井八郎商店の足袋原料倉庫で、
 昭和初期に建設されたものと思われます。
 同商店の手を離れた後にこの場所に曳家され、東半分が取り壊されましたが、
 現存する数少ない木造の足袋蔵として貴重な存在です。
 現在は陶芸工房として再活用され、「行田窯」となっています。」



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あと少しで「さきたま古墳公園」というところで、小型の飛行機を発見。
説明を読むとこの機体は「日本初の国産ジェット機」なんだそう。
保存状態を保つためか、コックピット部にシートがかけられていたのがちょっと残念です。
でも屋外ですからこれは仕方ないことですね。

「富士T-1ジェット機 初鷹
 富士T-1ジェット機は、日本初の国産ジェット機として富士重工業が開発製造し、
 1958年(昭和33年)1月19日初飛行に成功しました。
 主に航空自衛隊の飛行教育訓練機に使用されました。
 当870号機は1963年(昭和38年)に製造され、約40年間にわたり飛行任務を遂行しました。
 全幅 10.48m   総重量  5,200kg
 全長 12.12m   最大速度 870km/h
 全高  4.08m   製造元  富士重工業」



T-1(練習機)@Wiki


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そして「古墳公園」に到着したものの、あまりの暑さに耐え切れず「さきたま史跡の博物館」へ駆け込みます。
中は当然ですがクーラーが効いていて、溶けそうだった頭と体がリフレッシュされました。
もちろん展示もなかなかのもの。


埼玉県立さきたま史跡の博物館


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園内には「埼玉県名 発祥之碑」が!
交差点に書かれていた文字は本当だったんですね~。
埼玉県民なのに知らなかったです(^^;

「埼玉県名の由来

 明治四年十一月十四日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設置するとの大政宣布告が出された。
 これが埼玉県の誕生である。
 以後、幾度かの変遷を経て、明治九年八月に現在の埼玉県の区域が定まった。
 「埼玉」が県の名称とされたのは、当初の県の管轄区域の中で、最も広いのが、埼玉郡であったことによる。
 埼玉郡は、律令による国郡制度が発足した当初から設置された郡と見られ、当初は前玉郡(さきたま)という表示も行われ、
 正倉院文書亀神三年(七二六)の山背(やましろ)国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記が見える。
 また、延喜式神名帳にも埼玉郡の項に「前玉神社二座」とある。
 ここ行田市埼玉(さきたま)の地は、巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所でもある。
 おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て、県名発祥の記念とする。
 昭和六十二年四月  埼玉県」



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このあと少しだけ古墳を眺めて、近くのうどん屋で昼食。
そして「古墳公園」から伸びる「さきたま緑道」を通って「北鴻巣駅」へ。
この緑道は自転車道と歩道が途中で交差することはあるものの、基本的に分離されています。
また沿道は樹木が植えられているため強い日差しをさえぎってくれたので、酷暑の下でもなんとか走りきることができました(^^;

とはいえ、さすがにもう気力も体力も「売り切れ」状態。
中途半端なところではありますが、ここでポタは打ち切りにして「JR高崎線」に乗り込みました。
最終目的地は「川越」だったんですけどね~。


今回のルート(走行距離:34.0km)
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コースは完全といっても過言でないほど平坦です。
アップダウンは川などを渡るときくらいですから楽勝ですね。
今回みたいに時期を間違えると大変なことになりますが(^^;


D700+24-120mmF4G\VR


次回からは、10月に行田市から再走した分をアップします。
by sampo_katze | 2011-11-21 20:30 | with Brompton | Comments(0)


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