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日本三古湯の1つ・道後温泉
アフターしまなみ in 松山・前編


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「温泉地の城跡」


11月14日(月)、最終日です。
この日の午後一の便で「松山空港」から帰京します。

本来なら「松山城」に行ってみたいところだったんですが、時間が足りません。
かつて1度訪ねたこともありますので、いさぎよく(?)あきらめ。
「道後温泉」に立ち寄ることにしました。


表紙の写真は、「道後温泉」のすぐ南にある「道後公園」の入口です。
両側に「湯築城」の幟が立っていたのにちょっと驚き。
こんなところにも城があったんですね~。


「道後公園
 道後公園は全体で約八.六ヘクタールあり、外堀を含め南北約三百五十m、東西約三百mで、
 中央部は海抜約七十m(比高約三十m)の丘陵部となっています。
 外周は外堀で囲まれ、丘陵を取り巻くように内掘があります。
 明治十九年に設置された道後植物園を前身とし、明治二十一年に県立道後公園となりました。
 昭和六十二年の道後動物園移転に伴い、昭和六十三年から発掘調査を実施したところ、
 湯築城跡の遺構や遺物が数多く出土しました。
 十二年間におよぶ発掘調査によって、遺構として、道路、礎石建物、土塀などが検出され、
 遺物として、土師質土器(はししつどき)、輸入陶磁器などの土器類や武具、建築用具の金属製品など
 約二十五万点が出土しています。
 湯築城跡の遺構は、全国的にみても、中世守護の城館としてまれに見る良好な状態で残っており、
 極めて貴重な遺跡であることが明かになりました。
 この遺跡を保存・活用するため、復元区域では、武家屋敷や土塁などの復元、出土遺物・遺構の公開を行っており、
 散策・休憩しながら楽しく歴史を学べる場としております。」


「湯築城跡(ゆづきじょうあと)
 湯築城は、二重の堀と土塁を巡らせ、その中に居住空間を持つ先駆的な「平山城」(ひらやまじろ)の形態をなす
 中世伊予国(現在の愛媛県)の守護河野氏の居城として、約二百五十年間存続しました。
 南北朝時代の初め頃(十四世紀前半)、河野通盛(みちもり)によって築かれたといわれています。
 通盛の祖先には、十二世紀末の源平合戦の際、水軍を率いて活躍した通信(みちのぶ)、
 十三世紀後半の蒙古襲来の際活躍した通有(みちあり)がいます。
 通盛は、それまでの河野氏の拠点であった風早郡河野郷(現在の北条市)からこの道後の地に移りました。
 築城に関する文献は残っていませんが、河野郷の居館が寺(善応寺)になった時期や、忽那家(くつなけ)文書の記述などから、
 遅くとも建武年間(一三三四年~一三三八年)には築城されたと推定されています。
 河野氏は、その後讃岐(さぬき)から攻め入った細川氏との戦いに敗れ、湯築城は一時占拠されましたが、
 守護職とともに湯築城を奪い返しました。
 しかし、近隣諸国から幾度となく攻撃を受けたり、お家騒動(惣領職・そうりょうしょくの継承をめぐる分裂)や
 内紛(家臣の反乱)を繰り返し、その地位は決して安泰ではありませんでした。
 天正十三年(一五八五年)、全国統一を目指す羽柴(豊臣)秀吉の命を受けた小早川隆景(こばやかわたかかげ)に湯築城は包囲され、
 河野通直(みちなお)は降伏し、やがて湯築城は廃城となりました。」



道後公園
湯築城@Wiki


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「伊予鉄道市内線」の終着駅「道後温泉駅」で並ぶ車両。
見た目が微妙にちがいますが、形式はどちらも「モハ50形」で同じです。
大きく「51」~「61」が前期形、「62」~「79」が後期形と分けられ、その中でも製造時期によって細かい違いがあるそう。
ちなみに左の「53形」は1951年製造の最初期形、右の「77形」は1965年製造の最終形です。


伊予鉄道株式会社公式サイト
道後温泉駅@Wiki
伊予鉄道モハ50形電車@Wiki


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「道後温泉駅」の駅舎。
レトロな外観は1911年(明治44年)に建てられたデザインで復元されているため。
市内電車の雰囲気ともマッチしていていい感じです(^^)

「道後温泉駅の昔と今
 この「道後温泉駅」の前身は、明治28年に開通した鉄道線の主要駅「道後停車場」で
 日本書紀にも登場するわが国最古の歴史を誇る名湯「道後温泉」の玄関口に位置します。
 その後、明治44年に鉄道の電化に際して建て替えられましたが、老朽化のため伊予鉄道100周年事業のひとつとして
 昭和61年に新築復元されました。
 明治の面影を残し、文明開化の香りを彷彿とさせる洋館の佇まいは、夏目漱石ゆかりの「坊っちゃん列車」とともに
 松山市民や観光客に親しまれ、情緒あふれる道後の観光名所となっています。」



道後温泉駅@Wiki


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駅前にとまる「マドンナバス」
予約制の観光周遊バスで約3時間かけて「石手寺」「道後温泉又新殿」(ゆうしんでん、後述)~「秋山兄弟生誕地」とめぐるようです。
「ボンネットバス」を使用していますが、運用の都合で「観光バス」が使用されることもあるんだそう。


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そして駅から約300mのところにある「道後温泉本館」へ。
共同浴場とは思えないほど重厚で立派な建物ですね。
1894年(明治27年)に建築されたもので、1994年(平成6年)に国の重要文化財に指定されています。
建築費用は当時の金額で13万5千円だったそう。
小学校教師の初任給が8円だったことから、少々ムリに換算すると現在では30~40億円!
なんとも膨大な予算が必要だったんですね(^^;


道後温泉物語 道後温泉旅館協同組合HP


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正面付近。
中央の「白鷺」(しらさぎ)が乗っている部分は「振鷺閣」(しんろかく)と呼ばれるところ。
ここには「刻太鼓」(ときだいこ)があり、朝6時・正午・夕方6時の1日3回打ち鳴らされます。

「白鷺」はこの温泉が発見された伝説にちなむもの。
足を痛めた「白鷺」がこの温泉の湯に浸かり、傷を癒して飛び立つ様子を村人が発見したことが始まりなんだそう。


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本館に向かって左手前にある「坊ちゃん広場」に並ぶ小説キャラクター人形。
左から「野だいこ」「うらなり」「マドンナ」「山嵐」「坊ちゃん」「たぬき」「赤シャツ」


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そのそばに立つのはおぉ!「夏目漱石」先生。
温泉から上がったばかりのご様子ですね。


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本館の北側へ。
2階には大広間、3階には個室があり、それぞれ休憩することができるようになっています。
片隅には顔出しパネルが置いてありますね。


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「振鷺閣」のてっぺんに立つ「白鷺」が柵の上に並びます。
間に並ぶのは「栗」でしょうか?


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北東側にある大きな石は「玉の石」と呼ばれています。

「玉の石 御湯かけ祈願
 玉の石は大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の逸話にありますように、
 道後温泉の霊妙不可思議な効力の象徴であります。
 道後温泉の御湯をかけながら、「病気平癒」「縁結び」「商売繁盛」の願い事を唱え、二礼二拍手一礼の拝礼をされることにより、
 必ずや神様にその意が通じるものと存じます。
 道後温泉本館」



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本館の東側。
印象がずいぶん異なりますね。
ここは「又新殿」(ゆうしんでん)と呼ばれるところで、日本唯一の「皇室専用浴室」です。
ただし1952年を最後に使われていないんだそう。
「霊の湯」(たまのゆ)の切符(広間800円、個室1200円)を購入するか、別途250円を支払うことで見学することも可能です。


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少し高いところから眺めてみようと、南東側にある階段を上がります。
その踊り場には「湯神社」と刻まれた石碑がありました。
あとで調べると、さらに上に上がると「本殿」などがあるようでした。


湯神社公式サイト
湯神社@Wiki


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「道後温泉本館」を坂の上からの眺めます。
ちょっとした城のようにも見えますね。


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次回は最終回、坊っちゃん列車と共に道後温泉~松山駅と走ります。
by sampo_katze | 2012-01-09 21:00 | Brompton+しまなみ


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