第3室 鉄道のあゆみ
大阪の交通科学博物館を訪ねよう!編・第3回


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「アメリカチックロコ」


第3室は「鉄道のあゆみ」です。
資料や模型に加え「ぽっぽシアター」での映像などで、日本の鉄道の歴史を紹介しています。
今回はちょっと目線を変えて、模型ではなく別の資料を紹介していきます。
1枚目だけはちょっとちがいますが(^^;


表紙の写真は、「明治」から「大正末期」まで活躍した「7100形蒸気機関車」の模型です。
1880年(明治13年)「北海道」初の鉄道開業に合わせて投入された「アメリカ」製機関車で、1889年(同22年)までに8両が投入。
そのうち初期の6両にはそれぞれ愛称がつけられ、こちらに展示されているのは「義經号」(よしつね)です。
館内には走行可能な「実機」も保存されています(通常は屋内展示)。


国鉄7100形蒸気機関車@Wiki


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「義經号」の手前に展示されている「関西鉄道」のチラシ(複製)。
「往復割引乗車券」の案内のようです。
右の「金毘羅まいり」「鉄道運賃」が半額、「高松」「多度津」間の「汽船」は3割引き。
当時は「瀬戸大橋」はおろか「宇高連絡船」もありませんでしたから、こういうルートなんですね。
また左の「伊勢神宮」「京都本願寺」「高野山」などは行きの運賃のみ半額となるようです。
いずれも9月第1週のみ限定ですが、かなりおトクな料金設定になっていますね。
ちなみに現在の往復割引は片道601km以上で適用され、片道が2割引きになります。


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「礼装用短剣・ベルト」
最初は「明治時代」「郵便配達員」「短銃」を携行していたのと同じなのかな?と思ったんですが(^^;

「鉄道院時代の礼装用短剣 1909年
 明治42年に制定されたもので、主に式典などの礼装用として肩章とともに装着されたが、大正8年に廃止された。
 この短剣は判任官用で、柄は黒色で桐の模様が施されている。
 それ以外に奏任官以上(高等官)の白柄で菊と桐の模様になっている物の2種類がある。
 ベルトは、奏任官以上のもの。

 寄贈  萩原治 氏」

※説明文より引用、以下同じ

判任官、奏任官についてはこちら
官吏@Wiki


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明治43年(1910年)2月1日に発行された「鉄道法規類抄」
手前には「腕木式信号機」「駅名標」の図面が展示されています。
「鉄道員」「乗客」に知らせるものだけに規格がまちまちでは困る、ということから
事細かに規定されていたんでしょうね。


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奥は1893年(明治26年)と1906年(同39年)の「鉄道路線図」
地図の左上に路線名が書かれていますが、その数は13年でざっと3倍にもなっていました。
この写真では肝心な路線図がわかりづらいですが、急速に路線が増えていったことが読み取れます。
特に「首都圏」「大阪」「九州北部」はネットワーク化が顕著で、
「北海道」「東北」「北陸」「山陰」も主要幹線が伸びています。

また手前は1924年(大正13年)の「山陽道パノラマ地図」です。
右に「神戸市街」、中央は「淡路島」の北なので「明石」付近、左は「姫路城」が描かれています。
この図の右端には「山陽線 岡山、宇野、下津井線 厳島全景」の文字が見えるので、
「神戸」から「広島」までが描かれているようです。
しかも表紙には「日本全国パノラマ地図」とあり、これは第4編。
つまり全国の路線図をこのように描いた地図が存在する(した?)んでしょうね!スゴイ!!

「鉄道網の発達
 国有化とともに、明治末頃から大正初期にかけて地方の鉄道も次々に整備された。
 山陰線や中央線、北陸線などの地方幹線や九州でも建設がおこなわれ、都市には電車が次々と誕生した。
 このころから、技術的にも大きな橋梁や構造物が建てられるようになり、主要幹線の改良とあわせて
 建設がすすめられ、全国的な鉄道網が整備されていった。
 また、国有化によって効率的な輸送が行われたため旅客数も2倍に増え、1912(明治45)年には
 東京-下関間に初の直通特急が登場した。」


「鉄道の黄金時代
 全国的に路線網が整備されてくると、旅客や貨物の輸送量が急激に増加してきた。
 そのため、それまで一緒に扱っていた旅客と貨物を分離し、主要幹線の改良とあわせて駅の改良がおこなわれた。
 また、線路の複線化や高架化だけでなく、自動連結器の導入や車両の大型化により輸送の高速化がすすめられた。
 1929(昭和4)年には東京-下関間の特急に初めて愛称名が付けられた。
 公募でえらばれたのは日本らしさを表す「富士」「桜」で、翌年には東京-神戸間に特急「燕」が登場した。」



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「鉄道省」発行の「鉄道貨物取扱い告知」のチラシ。
なかなか大胆な図案ですね。
「戸口から戸口迄」のフレーズは「国鉄」時代の「コンテナ」に書かれていた「戸口から戸口へ」に通じているのかも。

「鐡道の手で戸口から戸口迄
 今度鐡道では皆様のお宅やお店まで荷物を受取に行く(集荷)といふことを始めました。
 又、配達は従來もやって居ります。
 集荷の申込は端書でも、電話でも便宜の方法で最寄りの驛にお通知下さい。
 (以下略)」



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戦時中のポスターと「車内回覧」、右下は「旅行申請書」「旅行証明書」
いずれも1944年(昭和19年)のものです。

「戦争と鉄道
 「陸の王者」といわれ日本の産業を支えてきた鉄道も、戦争の激化とともに交通規制の枠に組み入れられ、
 軍事貨物輸送が主体となった。
 一般の旅行は制限されるようになり、許可を得なければならなかった。
 空襲を避け、大都市から安全な地方へ子供を運ぶ「学童疎開列車」などもあった。
 戦争が終わるとすぐに、残った施設や車両を使って「引き揚げ列車」を運行、
 海外の戦場から帰ってきた人々を故郷(ふるさと)へ運んだ。
 空襲により鉄道も大きな被害を受けたが、陸上輸送の主役として荒廃した日本各地を走り続け、
 戦後の復興に大きく貢献した。」



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1949年(昭和24年)の「時刻表」
発行元はどちらも「日本交通公社」ですが、編集元が「運輸省」から「国鉄」へと代わったときのものです。

「日本国有鉄道発足
 鉄道は、国の産業や国民の生活を支える重要で大規模な事業のため、日本では創業時から政府が直接、
 建設・運営をおこなってきていた。
 しかし戦後はそれまでの国のしくみが大きく改められたため、鉄道も1949(昭和24)年、
 公共企業体としての「日本国有鉄道」となり再出発した。
 そして1987(昭和62)年に分割民営化がおこなわれるまで、日本の発展のために重大な役割を担い続けた。」


「鉄道の近代化
 昭和30年代にはいると、交通の近代化がはじまった。
 幹線道路の整備がすすめられ、国産自動車の増加は、鉄道とともに高度経済成長の交通を支えた。
 鉄道では幹線の電化がおこなわれ、地方線では蒸気機関車からディーゼル機関車などによる輸送に変わっていった。
 1956(昭和31)年、輸送力増強のためすすめられていた東海道線の電化が完了し、
 その2年後には電車特急「こだま」が登場した。
 この電車特急により東京と大阪間の日帰りが可能になり「ビジネス特急」とよばれ親しまれた。」



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左は「山陽本線全線電化完成乗車記念券」
券面には「1964・10・1 山陽本線電化完成 特急「しおじ」乗車記念券  下関~新大阪 運転」とあります。
「下関駅」を06:30発とあるので、上りの1番列車だったのでしょう。
右側には「特別急行券 2等 800円」とあり、現在に換算するとざっと7000円前後でしょうか。
ちなみに2013年現在、「小倉」~「新大阪」間は「のぞみ」指定席利用で料金5540円です。
当時の運賃が不明なので単純比較できませんが、大きくは変わってないといえるかな?

そして右は同じく1964年(昭和39年)の「大阪環状線 大阪西九条間 高架完成記念犬釘」
って「犬釘」!?(笑)
「レール」「枕木」に固定するための部品なんですが、これが記念品とは(^^;
これも一般に販売されたものではないですよね~、きっと。



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1946年(昭和21年)の「切符印刷機」
館内には2台展示されています。
うち1台は「ガイドツアー」に参加すると、実際に稼働~印刷する様子を見ることができるようです。
係員の方が装置の清掃を行っているのを見たので(^^;

「きっぷと運賃の移り変わり
 鉄道の創業のころ、「きっぷ」は「手形」や「切手」とも呼ばれ、英語・ドイツ語・フランス語の
 注意書きがあるイギリスからの輸入品であった。
 上等、中等、下等の片道乗車券だけで、厚紙に印刷されていた。
 現在では、列車やサービスの種類によって大きさや形、運賃もさまざまで、厚紙の硬券「きっぷ」は
 次第に使われなくなっており、磁気での「乗車券」がほとんどとなっている。
 1872(明治5)年の鉄道開業時の運賃(新橋・横浜間)は上等1円12銭5厘、中等75銭、下等37銭5厘で、
 2か月分の米が75銭であったので、当時の鉄道はとても高価な乗り物であった。」



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「切符」にまつわるあれこれ。
左上は「車内補充券発行機」、左下は「切符」の版元(?)ですね。
通常のもののほか、簡易的な「路線図」が描かれたものもありました。
右側の一枚板は「切符」の表面にある「地模様」を印刷するための版板。


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「乗車券検査棒」
のこぎりの刃のように刻まれた溝に「切符」を並べ、通し番号が順番通りになっているかを検査するものかな?


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最近はほとんど見かけなくなった「改札鋏」「検札鋏」
「改札鋏」は「自動改札機」になったり無人化されたりして、「検札鋏」はそれ自体が省略されたり「スタンプ」になりましたからね。
ただ以前訪ねた「小湊鉄道」では昔ながらの「車内補充券」を「検札鋏」でパンチ穴をあけるタイプが残っていました。
ほかの地域でも残っているところがありそうですね。


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列車予約システムの「マルス102列車座席予約操作盤」(左)と「指定券印刷機」
1965年10月に「みどりの窓口」が開設されると同時に導入されました。
アナログスイッチで入力するところがレトロです。

マルス(システム)@Wiki


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「マルス」導入前の列車予約の様子。
駅から電話を受け、所定の台帳を棚から取出して割り当てを行いつつ返答。
完了すると元の場所に戻すという流れだったそう。
とはいえ回転する台帳棚は回転速度は1周約8秒とかなりの高速!
その中から必要なものを取り出す~元に戻すというだけでも大変そうなのに(汗)
まさに職人技ですね。

「列車予約の移り変わり
 列車予約の受付は、昔はたいへんめんどうな手作業であった。
 1900(明治33)年、初めての予約が行われたのが一等寝台車で、あらかじめ主な駅にわりふる方法ではじまった。
 戦後になると、東京駅と大阪駅の「乗車券センター」で各駅からの予約電話を受けて、台帳に記載していく方法がとられた。
 1日最高34,000座席をあつかうこともあり、手作業では限界があるため、1960(昭和35)年からは「マルス」と呼ばれる
 コンピュータが使われるようになった。」



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初期の「自動改札機」
青い扉がなつかしい!
って、「東武大師線」で使われていたのは色がちがっていたような?
確か黄色というかオレンジというか、そんな色だったような・・・・・。
いずれにしても小さいころはこの扉がちょっとコワかったですね~(^^;

「自動改札機
 日本の鉄道では、乗車時に駅内の改札口で乗車券にパンチやスタンプなどで乗車の確認をおこない、
 下車駅で乗車券の回収・確認をおこなっている。
 従来は人の手によっておこなわれていた「集改札」だが、自動改札機の登場によって機械化された。
 日本初の自動改札機は、1967(昭和42)年に阪急電鉄の北千里駅で使用され、
 国鉄では1973(昭和48)年に武蔵野線開業時に実用化された。
 その後は、関西の私鉄を中心に急速に普及した。
 一般に、乗車券裏の磁気テープに乗車駅や運賃などの様々な情報を入れ、降車駅で確認する方法がとられている。
 現在では、ストアードフェアシステム(JスルーカードやスルッとKANSAI)やICカード式乗車券(ICOCAやPiTaPa)などにも
 対応できるよう、技術の進歩とともに改良がおこなわれている。

 ※展示してある自動改札機は、1979(昭和54)年、片町線四条畷(しじょうなわて)~長尾間の複線電化と同時に
 設置されたもののひとつで、関西の国鉄では最初に採用されたものである。
 1997(平成9)年のJR東西線開業にともない、新型自動改札機「Jスルー」に置き換えられた。」



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当時は「ICカード」はおろか、「プリペイドカード」もありません。
なので「投入口」が1つあるだけのシンプルなものです。
「切符」の裏も当初は「茶色」だけでしたし。


すべて D700+24-120mmF4G/VR


次回は、第5室の鉄道の施設としごとです。
by sampo_katze | 2013-10-03 20:45 | 博物館・美術館 | Comments(0)


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