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史上最大級の天守へ
名古屋訪問Ⅰ~名古屋城編・最終回


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「夕日を浴びる大天守を見上げて」


いよいよ「名古屋城」の中心である「天守」へと攻め込みます。
「名古屋城」の築城が始まったのは1610年(慶長15年)で、「関ヶ原の戦い」から10年後のこと。
歴史を振り返ればこれ以降にあった大きな戦は「大坂の陣」だけですが、「江戸幕府」を開府したとはいえ、
このときはまだ西の「大阪城」「豊臣家」があったことから、それらに対する備えとして
かなり大がかりな城が造り上げられたようです。
その後は大きな地震などにも耐えてきましたが、1945年(昭和20年)5月14日にあった空襲によって大部分を焼失。
現在の「天守」は鉄筋コンクリート製で、外観を復元したものとのことです。

「天守
 天守は城郭の本丸に建ち、最も中心となる施設である。名古屋城の築城が開始された慶長15年(1610)頃には、
 すでに戦乱の世は終ろうとしていた。政庁と居館機能は本丸御殿へ分担され、天守は戦闘施設よりも
 権威の象徴となっていた。一方で、大阪城の豊臣家との実戦も想定していて、五層五階、厳重な防御施設を備えた、
 日本最大級の天守が築かれた。
 昭和5年(1930)には国宝(城郭としては日本初)に指定されたが、昭和20年の空襲で焼失した。現在の天守は昭和34年に、
 鉄骨鉄筋コンクリート造で外観復元されたものである。」

※説明板より引用、以下同じ


表紙の写真は、「大天守」「小天守」からつながる通路から見上げたところです。
大きさは国内最大級といわれるほどの大きさですが、ふもとから見上げた写真ではわかりづらいですね(^^;
でも、最上層の屋根の上に乗っているかの有名なシンボルは後姿ですがしっかり見えます。


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ちょっと戻って「小天守」の地下1階にある案内図。
復元された「天守」は、3階建ての「小天守」と7階建ての「大天守」の2つがあります。
攻略ルート、もとい見学ルートは「小天守」の地下1階を通り「大天守」の地下1階へと入り最上層へと向かうものです。
ただ現代の技術が盛り込まれているため、エレベータで最上層手前へと一気に駆け上がることもできますよ。


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「名古屋城」といえば屋根に乗っている「金鯱」(きんしゃち)があまりにも有名。
そのため「大天守」の「入口ホール」にもこうして展示がされています。
もっともここにあるのは石膏でできた実物大の複製ですけどね(^^;
でも「金鯱」の大きさを間近で感じることができますよ。

「金鯱
 鯱とは空想上のいきもので、火除けの意味を持つとも言われています。
 名古屋城大天守の屋根に輝いていた初代の鯱は、慶長17年(1612)の生まれ。
 慶長大判にして1940枚の金が使われたと伝えられています。今の感覚なら10億円とも20億円とも・・・。
 初代の鯱は、昭和20年(1945)の天守の炎上とともに焼失してしまいました。昭和34年(1959)に再建された
 ここ天守閣の屋根の上には、二代目鯱が輝いています。
 この鯱は、昭和34年、屋根の鯱と同じ大きさで作られた石膏模型です。金も残念ながら本物ではありません。
 なお天守閣5階では、座れる鯱が皆様をお待ちしています。」



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こちらは金網に覆われて哀れな姿をした「金鯱」の模型。
鳥よけのためにつけられたそうですが、捕まってしまったように見えてなんだか気の毒ですね(^^;
ほかにも盗難防止のためという理由もあるんだとかで、実際4回ほど盗難にあってるんだそうです。
金の純度が低いとはいえかなりの量の金が使われていますから、狙われるのもわかります。
さすがに丸ごと持っていくのは無理なので、うろこをはがすという手口らしいですが。

「金鯱の改鋳(かいちゅう)
 尾張藩は3回にわたって、金鯱の改鋳を行った。取り出された金は、藩財政を建て直すための財源に充てられた。
 享保15年(1730)に1回目の改鋳がなされた時、鳥除けのため、金鯱に針金の網が付けられた。
 文政10年(1827)の改鋳では、金の純度が大幅に落とされ、色がにぶった。鱗(うろこ)の厚さが半分以下に
 なったため、鳥がついばむと変形する恐れが出てきた。「金網は見た目が悪い、外したい」という意見もあったが、
 金鯱は再び金網で覆われた。」



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城内には5階まで上がれるエレベータがありますが、階段もあります。
ただ「入口ホール」が地下1階で「展望室」は7階にあるので歩いて上がるにはちょっと覚悟がいりますね。
もちろんわたしは歩かずにエレベータを利用しました(^^;
で、5階から「展望室」までは階段を上がります。
これはそのときに下まで延々と続く階段を撮ったもので、転落防止用の柵が内側にぐるりとめぐらせてありました。
なんとも独特の雰囲気になっていますね。


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さて「展望室」から夕暮れの町を眺めることにします。
残念ながら雲が多く、夕焼けは見ることができそうもありませんでしたが。

まずは復元工事中の「本丸御殿」を見おろしてみます。
左端中央に骨組みからちらっと見える屋根が表玄関である「車寄」のようです。
下からではほとんど見えませんでしたが、こうしてみると工事範囲はかなり広いんですね。
またエリアのほとんどはまだ「素屋根」で覆われていました。


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これは「名古屋駅」方面の様子。
雲が少なければきれいな夕日が見られたはずなだけにちょっと残念。
駅周辺では新たなビルがニョキニョキと成長しているようです。


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「展望室」を出たら、階段を下りながら城内の展示物を見学していきます。
これは「駕籠」(かご)ですが、外観を豪華に装飾してあり女性用とのこと。
これに対し男性用は質素だったようですね。

「女乗物
 江戸時代後期  名古屋城蔵
 黒漆塗(くろうるしぬり)・金蒔絵(きんまきえ)・葵紋(あおいもん)・牡丹唐草門(ぼたんからくさもん)
 駕籠(かご)と通称されるが、江戸時代には女乗物といった。前後3人ずつ計6人でかつぐ。
 女乗物は、身分によって装飾方法が異なる。本作品のように黒漆で塗り金の蒔絵で飾り家紋を入れたものは、
 最上級に位置付けられ、大名家の子女の婚礼道具として製作された。
 なお男乗物は、将軍用でも飾りはなく、質素であった。」



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城といえば「刀」の展示が見られます。
ここで収集されているのは「木子コレクション」の一端。
一般にはこの手の展示は撮影禁止なんですが、ここはめずらしくOKでした。

「木子(きし)コレクション
 平成5年(1993)度に名古屋城は、名古屋市在住の木子進發氏が長年にわたって収集された刀、
 鍔(つば)など刀剣コレクションを、一括して寄贈いただきました。その数は約800点に及びます。
 名古屋城では、この膨大、かつ貴重なコレクションの一部を、展示替えしつつ公開しています。

 刀
 刀は武士が身を守り、敵を倒すための道具である。その一方で自身の強さ、優位性を表現するための道具でもあった。
 そのため、さまざまな形式の刀が生み出され、意匠がほどこされていった。その美しさは、現代でも高く評価されている。」



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「刀身」に刻まれた見事な彫刻。
剣に巻きつく龍を描いているとのこと。

「刀 銘粟田口源廣綱(めいあわたぐちみなもとのひろつな)
 銘;(表)粟田口源廣綱、(裏)以南蛮鉄造之
 江戸時代前期 木子節子氏寄贈

 刀身に彫刻(刀身彫 とうしんぼり)で、倶利伽羅竜王(くりからりゅうおう 不動明王が変化した姿とされ、龍が剣に巻きつき、
 これを呑みこもうとしている)があらわされる。刀の美観を高めるとともに、所持者の守護を目的に施された。」



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これは「刀」のパーツの1つの「鍔」(つば)。
上半分には縁起のいい「鷹」、下半分には対照的に小鳥2羽が舞うデザインです。

「鍔
 鍔は、刀の柄(つか 茎:なかご)と刀身を区切る部分に付けて、拳を防御し、手のすべり止めとする道具である。
 見た目の美しさも重視され、さまざまな装飾、技巧がほどこされた。霊獣、草花、鳥獣、家紋、風景など、
 めでたい、縁起がよいとされる絵柄が多く表現された。

 松鷹図透鍔(まつたかずすかしつば)
 江戸時代  木子節子氏寄贈  名古屋城蔵
 全体は真鍮製で、上の鷹の一部、下の鳥2羽などを金の色絵であらわす。」



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1945年(昭和20年)5月14日、「名古屋」の市街地は空襲にあいました。
そのときの様子をとらえた写真も展示されています。

「B29から見た、5月14日に空襲を受ける名古屋市街地   中日新聞社提供
 左下の白煙が上がっているのが名古屋城付近。右端の黒煙が上がっているのが、大曽根付近(現・名古屋市東区)。
 画面の右端中央に、束となって落ちていく収束焼夷弾の一群が見える。」



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空襲では、ここ「名古屋城」も大きな被害を受けました。
「天守」も例外ではなく、あっという間に焼け落ちてしまったとのこと。
この写真はその様子をとらえたもので、「天守」の最上部からは大きな炎が立ち上っています。

「炎上する名古屋城天守   名古屋空襲を記録する会写真提供
 当時、金鯱を空襲から守るため、天守からおろそうと、足場が組まれていた。
 そこに焼夷弾からの火がつき、一気に焼け落ちたといわれる。
 空襲は午前8時5分から9時25分の間で、その間に焼失し、撮影がなされた。
 煙で日光が遮られたため、夜間であるかのような写真になっている。」



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すすにまみれ、変形した瓦や飾り金具。

「大天守の銅瓦(どうがわら)、飾り金具
 瓦は炎を浴び、曲がっている。金具は、もとは葵紋を打ち出した破風(はふ 屋根端の山形の部分)飾りであった。
 これらの残骸は、戦後まもなくに拾い集められた。後世の研究用に保存されたものである。」



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再び「入口ホール」へと戻り、「天守」の外へと出ます。
そういえば外観を撮ってなかったと思って1枚。
こうしてみると、最上層の「展望室」の窓だけがほかとちがって大きなものになっているのがわかります。
外観を再現したものですが、ここだけは観光を目的とするためにこのようにしたんでしょうね。
もちろん、実物はほかの層と同じく小窓だったはずですが。


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夕日は見られませんでしたが、沈みゆく太陽の光が上空の雲にあたっていい感じに☆
う~ん、こうなるのがわかっていたらもう少し上で待ってればよかったかな?(^^;



さて、今回はできるだけ「名古屋めし」を食べたいなと思っていました。
そこで夕食は「台湾まぜそば」の元祖のお店を訪ねようと思ったんですが、結構行列ができるお店のよう。
それに「まぜそば」の前に「台湾そば」を食べてみるのがスジではないか?
ということで「鶴舞駅」ガード下の「一刻屋」へおじゃましました。
ここでのメニュー名は「台湾ラーメン」でしたが、ほかに「まぜそば」や「中華そば」などもあります。

で、オーダーしたのはもちろん「台湾ラーメン」。
ずいぶん時間が経ってしまったので細かい味は覚えてませんが(^^;
少しピリ辛でなかなかおいしかったです。
こんどは時間を合わせて「まぜそば」の元祖のお店を訪ねてみたいです。
行列してたらほかのところを探しちゃうかもしれませんけどね(笑)


すべて D700+24-120mmF4G/VR


次回は名古屋訪問2日目、名古屋港水族館編です。
by sampo_katze | 2016-04-04 21:25 | 東海・中部 | Comments(0)


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