八甲田丸・遊歩甲板~車両甲板とエンジンルーム
夏の函館~青森訪問2017編・最終回


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「青森ベイブリッジからアスパムまで」


「青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸」の後半です。

「八甲田丸」は1964年(昭和39年)8月に「津軽丸型」の第2船として就航しました。
「津軽丸型」とは1961年(同36年)から計画された旧船の置き換えにより誕生したグループです。
戦後の「高度経済成長」に伴い増加する輸送力への対応と高速化、操船の自動化や遠隔化などが図られています。
それまでの「青森」「函館」間の所要時間を4時間30分から3時間50分へと大幅に短縮。
そのことから「海の新幹線」とも呼ばれました。

このグループのうち「八甲田丸」と第1船の「津軽丸」、第3船の「松前丸」は3~4か月ちがいで建造されました。
そのためか装備機器の仕様が異なっていたそう。
幸い「八甲田丸」に装備されていたものは第4船から第7船にも採用されました。
「津軽丸」と「松前丸」が耐用年数18年をもって引退したのに対し、「八甲田丸」は延命工事を受けて現役続行。
1988年(同63年)3月の「青函連絡船」の最終日まで運航に従事し、「青森」→「函館」の下り最終便を受け持ちました。
その期間は23年7ヶ月と歴代最長になっています。

同年7月から9月に開催された「青函トンネル開通記念博覧会」では、青森会場のパビリオンとして展示。
その翌年の1989年(平成元年)9月から翌年5月にかけて「三菱重工横浜製作所」「博物館船」への改造工事を受けました。
そして1990年(同2年)7月、展示施設として一般公開され現在に至ります。

「青森」はこれまで何度か訪ねているんですが、「八甲田丸」を訪問するのは今回が初。
特に前回だったかな?その存在を思い出したものの、すでに閉館間近の時間!
とてもじゃないけれど見回りきれないなと思って訪問を断念した記憶があります。
これは「函館」の「摩周丸」も同じで、今回両方を訪れることができました。


表紙の写真は、4階の「航海甲板」にある「展望プロムナード」からの眺めです。
右舷から後方を眺めると「青森ベイブリッジ」「青森県観光物産館アスパム」などが見えます。
空には雲が多かったですが、夏らしい青空ものぞいていて気持ちよかったです(^^)


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4階の「航海甲板」の先端には「ブリッジ」(操舵室)と「無線通信室」があります。
これは「摩周丸」とほぼ同じなので省略。
その後はエレベーターに乗って1階の「車両甲板」へと進みます。
その前に1つ下の3階「遊歩甲板」の船首側の様子を見てみましょう。
このエリアは「青函鉄道連絡船記念館」になっていて、様々な資料や模型などが展示されています。

「青函鉄道連絡船記念館/3階「遊歩甲板」
 青函鉄道連絡船は、明治・大正・昭和の3代にわたり、青森の発展と深くかかわってきました。
 昭和63年3月13日に終焉を迎えた青函鉄道連絡航路を記念して、連絡船ならびに関連する鉄道交通の資料を広く収集・保存・展示し、
 青函交通史の研究・教育に活用することは、青森の文化とその歴史を理解する上で欠くことのできないものです。
 青函鉄道連絡船記念館は、近代青森の発展の歴史、および青函鉄道連絡船の築いた技術と文化を
 後世に正しく伝えることを目的として開館するものです。
   平成2年7月16日」

※説明板より引用、以下同じ


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展示されている模型をいくつかピックアップしてみます。
まずは「灯台巡視船」として活躍した「明治丸」から。
1874年(明治7年)11月に「イギリス」で竣工、翌年2月に「横浜港」に到着しました。
当時の最先端・最優秀の性能を持っていたことから本業以外にも様々な用途に使われました。
特に1876年(同9年)には「明治天皇」「東北・北海道巡幸」の帰路で「青森」から「横浜」まで御乗船されています。
7月20日に「横浜」に安着されたことから、1941年(昭和16年)に同日を「海の記念日」と制定されました。

その後の1897年(同30年)に「商船学校」、現在の「東京海洋大学」に貸与~移管され「練習船」になりました。
1901年(同34年)に「東京都江東区」にある「東京海洋大学越中島キャンパス」に移動。
1954年(昭和29年)に「練習船」としての任務を終えました。
最新では2013年(平成25年)から2年かけて修復工事が行われ、一般公開されています。

「明治天皇御乗船 明治丸(1/50)
 明治丸の概要
 船種 補助帆付双螺旋汽船  船質 鉄材(Iron)  総屯数 1027.57tons
 長さ 225feet(68.6m)  深さ 22.6feet(6.9m)  試運転速力 12.66knots  公称馬力 254HP
 1874年(明治7年)、日本政府がスコットランドに発注して建造した2本マストのブリガンチンであったが、
 1896年(明治29年)東京商船学校に移管されて、3本マストのフルリグド・シップに改装して定繋練習船となった。
 その後1964年(昭和39年)東京商船大学構内に記念船として展示、保存されている。
 この模型は改造前の2本マストのブリガンチンを設計図をもとに再現したものである。縮尺は1/50」


「明治9年、御歳24才の明治天皇は東北地方の御巡幸の際、帰路この明治丸に御乗船になり
 青森を7月16日に出港され函館を経由し、横浜に7月20日安着された。
 これに因んで昭和16年に7月20日を「海の記念日」として制定された。
 いわば青森は「海の記念日発祥の地」である。これを記念して聖徳公園に記念碑が建立されている。」



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「翔鳳丸」(しょうほうまる・手前)と「第一青函丸」です。
「翔鳳丸」は乗客のほか、「貨車」をそのまま積載して航行できるようになった最初の「車載客船」です。
それまでは「ハシケ」を使って貨物輸送を行っていたので「青森」と「函館」との間の貨物継走時間は40時間もかかっていました。
運航時間が4時間30分だったことを考えると、荷さばきに相当の時間がかかっていたことがわかります。
ですが、「翔鳳丸」はこれを10時間までに短縮。
「北海道」からの貨物輸送を大幅に増やすことになりました。

「第一青函丸」はその2年後に就航した「車両渡船」(貨車専用船)です。
1923年(大正12年)に着工の予定でしたが、同年9月1日に発生した「関東大震災」により1925年(同14年)に延期。
航海性能も計画より下げられた結果、運航時間は6時間と遅くなっています。
「貨車」は甲板上に置かれ、一部を除いて雨ざらし状態!
普通の雨ならまだしも、海上では当然海水がかかることもあって車両の損傷もたびたびあったんだそう。
なお、両船とも1945年(昭和20年)7月14日、15日の空襲により沈没しています。

「翔鳳丸  3,460t  <浦賀ドッグ製造>  (1:100)
 大正13年5月21日 就航
 昭和20年7月14日 終航(戦災沈没)
 青函連絡船初の客載車両渡船(客貨船)です。」


「第一青函丸  2,326t  <横浜ドッグ製造>  (1:100)
 大正15年12月12日 就航
 昭和20年7月15日 終航(戦災沈没)
 青函連絡船初の純車両渡船(貨物船)です。」



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1947年(昭和22年)に就航した「洞爺丸」です。
戦後は「GHQ」により新造船を着工することができませんでした。
仕方なく戦前から使用、着工されていた船を運航させたものの、故障や事故が多く発生し輸送力は低下したまま。
そこで1946年(同21年)に「GHQ」は「車載客船」と「車両渡船」をそれぞれ4隻ずつ新造する許可を出しました。
その8隻のうち最初に登場したのがこちらの「洞爺丸」です。
同型船として「羊蹄丸」(ようていまる)、「摩周丸」「大雪丸」(たいせつまる)があり、「洞爺丸型」と呼ばれます。
ただしこれら3隻はいずれも初代で、「船の科学館」および「函館」で展示されている(いた)船(2代目)とは異なります。

1954年(同29年)9月26日の「台風15号」、のちに「洞爺丸台風」と呼ばれる「台風」が起こした暴風と高波で転覆・沈没。
死者、行方不明者合わせて1155人という日本海難史上最大の惨事となりました。
このとき「第十一青函丸」「北見丸」「日高丸」「十勝丸」(いずれも「車両渡船」)の4隻も転覆・沈没しています。
この事故を契機に、戦前からあった「本州」と「北海道」を結ぶ海底トンネルの構想が具体化。
のちに「青函トンネル」として開通しています。

「洞爺丸  3,898t  <三菱神戸造船所製造>  (1:100)
 昭和22年11月21日 就航
 昭和29年9月26日 終航(台風沈没)
 戦後初の新造客載車両渡船です。」



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沈没の原因の1つとなった船尾部分。
「貨車」の出入りする部分は開いていて、ここから海水が流れ込んできてしまったんですね。
もちろん原因はほかにもありますが・・・・・。

「洞爺丸が沈没するまでは貨車の入る後部は開いたままでした。
 洞爺丸が沈没後 航海中は鉄のシャッターが下がるようになり、安全度を高めました。
 その後、船の大きさはさほど変わらないがトン数は倍以上になりました。」



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手前は「八甲田丸」とほぼ同時期に登場した「津軽丸」(2代目)。
奥のオレンジ色の船体は「津軽丸型」の「車両渡船」として登場した「渡島丸」(おしままる・2代目)です。
「渡島丸」は当時増大し続けていた貨物輸送の需要に応えるため、1969年(昭和44年)に就航しました。
その後、同タイプの船は1977年(同52年)までに5隻登場し「渡島丸型」と呼ばれました。
ですが貨物輸送需要は1971年(同46年)をピークとなり、1973年(同48年)の「第一次オイルショック」を機に激減に転じます。
このため「渡島丸」は1978年(同53年)、就航からわずか9年という短さで退役してしまいました。

「2代目津軽丸  5,319t  <浦賀造船所製造>  (1:100)
 昭和39年5月10日 就航
 昭和57年3月4日  終航
 "海の新幹線"と呼ばれた近代化船の第1船です。」


「2代目渡島丸  4,075t  <函館ドック製造>  (1:100)
 昭和44年10月1日 就航
 昭和53年10月1日  終航
 青函連絡船で最大の車両航走能力を持った純車両渡船の第1船です。」



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港での縁の下の力持ち。
それが「タグボート」、「青函連絡船」では「補助汽船」と呼ばれた小型の船です。
用途は様々ですが、こちらは大型の船舶を岸壁に接岸あるいは離岸するときにその動きを補助するために造られました。
「飛行機」でいえば「トーイングカー」のようなものでしょうか。
こちらに展示されているのは「青森」側で活躍していた「ふくうら丸」です。

「八甲田丸」と全長、総トン数、出力を比較してみると
全長 30m:132m (約4倍)
総トン数 235.22t:約5400t (約23倍)
出力 2000馬力:12800馬力 (6.4倍)
となります。
全長や総トン数は大きくちがっていますが、その割に出力の差は小さくなっています。
それだけパワフルな船だったんですね。

「ふくうら丸  235.22t  <函館ドック製造>  (1:30)
 昭和53年6月15日 配属
 昭和63年3月13日  終航
 青函航路最後の青森配属の新造補助汽船で、機能的にも優れた船です。」



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4階の「ブリッジ」にあるエレベーターに乗って1階へと下りていきます。
1階の「車両甲板」になっていて、5車種7両が展示されています。
狭いので全体を撮ることはできないのが難点ですが(^^;
また、全部をアップすると多くなるので一部の紹介にとどめておきます。

1階の船首側には「自動連結器付車止め(油圧緩衝器付)」がありました。
船内に搬入された貨車はまずここに連結されるんですね。
でもこれだけでは大きな揺れで横転してしまうので、「緊締具」(きんていぐ)で各車両を固定します。


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こちらは「スユニ50形」という「郵便荷物合造車」です。
その名の通り、1両の中に「荷物室」「郵便室」の両方を備えています。
「北海道」向けの車両は500番台の番号が割り当てられ、1978年(昭和53年)から17両が製造されました。
ですが、1986年(同61年)に「鉄道郵便・荷物」が廃止となったためこの車両もほとんどが廃車となりました。
ただ、17両のうち3両は翌年4月1日に誕生した「JR北海道」に継承されているとのこと。
ここに展示されているのは「509」(手前)と「510」の2両で、3両のうちの2両なのかな?と。

「スユニ50
 国鉄の所有した郵便車の最終型で、荷物室と郵便室の両方を備えていました。
 昭和61年(1986)10月に鉄道荷物・鉄道郵便が廃止されたため廃車にされました。
 製造初年/昭和52年(1977)  全長/20メートル  自重/31.4トン」



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「特急型ディーゼルカー」の先駆けとなった「キハ81系」
1960年(昭和35年)に26両(うち予備車8両)が製造されました。
先頭車両はその独特の外観から「ブルドッグ」の愛称で呼ばれていました。
ですがトラブルが多く、出力不足であったり先頭車が非貫通のため編成を自由に組めなかったりと欠点もありました。
これを改良して誕生したのがこちらの「キハ82系」です。
1961年(同36年)から1967年(同42年)まで358両が製造されました。
「特急」が大増発された1961年10月のダイヤ改正までに127両が登場し、各地で活躍しました。
ここにいるのは1965年(同40年)6月から8月にかけて製造された「キハ82 101」です。

「キハ82
 昭和36年(1961)10月の白紙ダイヤ改正で、全国の非電化区間に快適な特急の旅をもたらした、
 国鉄動力近代化の中心となった特急用ディーゼルカーです。
 製造初年/昭和39年(1961)  全長/21.1メートル  自重/43.6トン」



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ほかでは見られない?めずらしい「控車」(ひかえしゃ)の「ヒ600」
少なくともわたしはこれが初見だけでなく、初耳でもあります。
そもそも「控車」って何?と思ったくらいですから(^^;

「ヒ600
 連絡船の中に、車両を出し入れするときに使用された可動橋にかかる重量を少なくするため、
 機関車と出し入れする車両の間に連結された出し入れ専用の貨車で、控車の名称を持っています。
 自重/約7.7トン」



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船尾側の様子。
貨車の積み下ろしが終わると船尾扉が閉まり、外と切り離されます。
これで悪天候でも海水などが入り込まないようになっているんですね。
現在は稼働できない状態になっているとのことです。


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最下層の地下1階「第2甲板」へ。
ここでは「エンジンルーム」を見学することができます。
動いていないので静かですが、稼働中はものすごい音がしていたんでしょうね(^^;

「津軽丸Ⅱ型「八甲田丸」機関の特徴
 ●マルチプル機関
  八甲田丸は1台が1,600馬力の中速ディーゼル機関を4台ずつ1組にして、左舷と右舷に配置し左右それぞれ1本ずつの
  プロペラを回していました。青函連絡船は船底部に設けられた機関室の上部に車両を格納する大きな空間を備えなければなりません。
  しかも船の安定性を考えてできるだけ重心を低くする必要がありました。このため八甲田丸等の連絡船は、
  大型の高出力機関と同等の出力を8台の中型機関に分割して機関室の高さを低くおさえていました。
  このような機関配置をマルチプル・ギヤード・ディーゼル方式といいます。
  1台1,600馬力の機関を8台備えていた八甲田丸の出力は12,800馬力ありました。
 ●流体減速装置(フルカンギヤー)
  八甲田丸の機関が生みだす最大12,800馬力の動力を油の流れる力を借りてスムーズにプロペラに伝えるための装置です。
  向かいあった機関につながる羽根車とプロペラ軸につながる羽根車との間に油を出し入れして回転を断ったり
  つないだりできるようになっており、機関からの高速回転を和らげる働きももっています。」



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心臓部である「エンジンルーム」のとなりにあるのが「統括制御室」です。
「ブリッジ」に次ぐ第2の頭脳の位置づけにあります。

「統括制御室
 統括制御室は機関や航行に必要な補助機械の遠隔制御をはじめ
 機器の監視や計測・記録が居ながらにして行えることから、操舵室に次ぐもう一つの頭脳と言える部屋です。
 八甲田丸の統括制御室は防音装置と冷暖房が整い、快適な環境づくりが行われていました。」


やや駆け足になりましたが、「八甲田丸」の見学はこれで終わりです。
本当はもう少しじっくり見たかったところですが・・・・・(^^;


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帰りは「新青森駅」からで、ちょっと贅沢して「グランクラス」にしました。
もちろんこれが初乗車です。
座席は1列が1+2席×6列で定員は18人とぜいたくな空間になっています。
そして「和軽食」「洋軽食」のどちらか1つとアルコールを含むフリードリンクが提供されます。
「軽食」に関しては数に限りがあるので選択肢がない!なんてことも起こり得ますが仕方ないですね。

また「はやぶさ」では「青森」を通ることからか、「シードル」を味わうこともできますよ。
なお「北陸新幹線」では「加賀梅酒」に代わります。
それ以外にもいいこと盛りだくさんですが、長くなるので省略します(^^;



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次回から新シリーズ、浅虫水族館編です。
by sampo_katze | 2018-03-13 21:30 | 東北 | Comments(0)


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