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日本三大平山城・津山城に上る
津山出張のオフタイム・中編


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「そびえ立つ雄大な石垣を望む」


最終日の2月23日(金)。
思ったよりも早く仕事が片付きましたが、宿のキャンセルはできないので帰京は翌日です。
部屋に入るにしても少し早いので、またもや時間をつぶさなくてはならなくなりました。
そこで「津山城跡」を訪ねることにしました。
実は「津山まなびの鉄道館」を訪ねたあと、入口近くまで出向いていたんです。
ですがその先はかなり高さがありそうだったのと、移動の疲れもあったので断念。
この日は少し気合を入れて再度登城してみることにしました。

「津山城」は「日本三大平山城」の1つに数えられています。
ところで、この「平山城」(ひらやまじろ)とはなんでしょう?
「山城」(やまじろ)や「平城」(ひらじろ)はそのままなのでわかりやすいですが。
調べてみると「平地にある山や丘陵地に築かれた城」とのことだそう。
「日本百名城」のうち51城が「平山城」に分類されることから、もっとも一般的ともいえそうです。
なお、「三大~」の残り2つは「姫路城」「松山城」で、どちらも「現存天守」が残っています。


表紙の写真は、「吉井川」の右岸から眺めた「津山城跡」です。
石垣が何層にも重なり合うようになっていて、かなりの高さになっているのがわかります。
思わず、ほんとに上れるのか?と思ってしまうほど(^^;
ちなみに1873年(明治6年)の「廃城令」で建物はすべて破却されていますが、石垣の上に1棟だけ見えますね。
これは2005年(平成17年)に復元された「備中櫓」です。










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「津山駅」から10分ほど歩くと、城跡の南側に「津山観光センター」があります。
その前がスタート地点で、さっそくこんな階段が出迎えてくれます。
しかもその先にも壁のように石垣があって、簡単には上らせてくれない雰囲気を出してきてますね。

初日に訪ねたときは一応この上までは上ったんです。
でも、そこまででいっぱいいっぱい。
とてもその先、その上へと行く気にはなれませんでした(^^;


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階段を上ったらまずは一息(早)。
そこに「津山城」の復元図がありました。
左上に「森家先代実録の絵図等を参考に想像したもの」とありますが、かなり壮大な造りになっていたようです。
もし破却を免れていたら・・・・・と考えてしまいます。

「津山城跡  国指定史跡(昭和38年9月28日指定)
 津山城は、もと山城のあったこの鶴山(かくざん)の地に森忠政が慶長9年(1604)に起工し、
 元和2年(1616)の完成まで13年の歳月をかけて築いた輪郭式の平山城です。
 往時には5層の天守閣がそびえていましたが、この天守閣は弓狭間・鉄砲狭間・石落し等の備えを持ち、
 唐破風・千鳥破風等の装飾のない実戦的なものでした。また、本丸・二の丸・三の丸には、備中櫓をはじめ、
 栗積櫓・月見櫓等数多くの櫓が立ち並び、本丸には70余の部屋からなる御殿と庭園がありました。
 この城が築かれた当時は、我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期にあたり、津山城の縄張りの巧妙さは
 攻守両面において非常に優れたもので、近世平山城の典型とされています。
 明治6年(1873)廃城令によって城郭は公売され、翌7年から8年にかけて天守閣をはじめとする一切の建物が取り壊されましたが、
 豪壮堅固な石垣は残りました。
 その後、明治33年(1900)城跡は鶴山公園として津山町の管理となり、昭和38年に国の史跡に指定されました。
 <歴代城主>
  ・森家
   森家は清和源氏で、初代津山藩主森忠政は、美濃金山城主森可成の六男に生まれました。
   慶長8年(1603)徳川家への数々の武功が認められて、信濃川中島13万7,500石の大名から美作(みまさか)一国18万6,500石の
   大名に抜擢されました。この忠政は、本能寺の変で主君織田信長とともに壮絶な最期を遂げた森蘭丸の末弟にあたります。
   森氏は4代95年にわたって美作国を治めましたが、四代藩主長成に嗣子がなく津山森藩は改易となりました。
   その後、森家は二代藩主長継の子長直が備中西江原藩主として森宗家を再興し、さらに宝永3年(1706)播磨赤穂に移りました。
  ・松平家
   森家にかわり10万石の大名として新たな津山藩主となった松平宣富は、徳川家康の第2子結城(松平)秀康の曽孫で越前家と呼ばれ、
   徳川一門中に重きをなしていました。そして明治4年(1871)に廃藩となるまで、9代174年にわたって続きました。」


「城郭構成
 津山城は、吉井川と宮川の合流点を見下ろす小高い山(鶴山)を利用して築かれた「平山城」といわれる形式の城郭です。
 山頂を平坦に削って本丸とし、本丸を囲むように二の丸、三の丸が高い石垣によって階段状に配置され、南を大手、北を搦手(からめて)としています。
 三の丸下段の南、西、北側には総曲輪(そうくるわ)を形成し、その周囲を土塁と掘で固めています。
 一方の東側は急な断崖であり、その直下に南北に流れる宮川を自然の防御線としています。
 本丸への通路は、大手、搦手とも鍵の手状に曲がる「枡形虎口」(ますがたこぐち)が繰り返し形成されており、
 きわめて防御を意識した構成となっています。
 城内の櫓の数は60棟を数えます。これは全国にある他の近世城郭と比べても多い方で、城内には建造物がひしめき合うように建ちならぶ
 堅固な城郭構成をなしていました。」
※説明板より引用、以下同じ


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「津山城」を築いたのが「森忠政」(もりただまさ)。
説明では「森蘭丸」(らんまる)の弟とありますが、「忠政」は「森可成」(よしなり)の六男で「蘭丸」こと「成利」(なりとし)は三男です。
また四男の「坊丸」こと「長隆」(ながたか)、五男の「力丸」こと「長氏」(ながうじ)も「織田信長」に仕えていました。
「忠政」も「長重」の名で「信長」の下にいましたが、同僚の小姓にからかわれたときに扇子で相手の頭を殴打。
その様子を「信長」に見とがめられたことから、出仕するにはまだ幼いとして母許に返されます。
ですが、そのおかげで「本能寺の変」の難を免れることができました。
もしその一件がなかったら、この「津山城」が築かれることもなかったかもしれません。

「森忠政  1570-1634
 幼名を千丸。元亀元年、美濃(岐阜県)金山城に生まれる。京都本能寺の変で、織田信長を守護し、悲運の最期を遂げた森蘭丸の弟。
 天正12年(1584)兄長可の戦死後家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて金山7万石を与えられる。のち徳川家康に仕え、
 慶長5年(1600)信濃(長野県)川中島13万7000石を領す。同8年美作国一円18万6500石を与えられ津山に入封。
 翌9年より津山城の築城に着手、また城下の街づくりを始め、現在の津山の基をなした。
 寛永11年(1634)三代将軍家光に随伴して津山より上京するが、食傷により急死す。享年65才。
 なお、この像は、津山市小田中、森家の菩提寺本源寺にある木像を基としたものである。」



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「森忠政」像がある先は有料エリア(300円)。
受付を抜けると、道は石垣を回り込むように180度向きを変えます。
その途中で見上げると、その先に「備中櫓」が見えてきました。
「Googleマップ」で調べると、ここからの直線距離は約100m。
でも石垣がいくつも重なっていて、高低差もまだかなりあります。


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そこから階段を2つ?クリアすると、「備中櫓」のすぐ下まで来ることができます。
ここまで来ればあと少し、と思うかもしれません。
でも、そうそう簡単にはたどり着くことができません。
ここからさらに右手方向に向かって、階段と坂道を通ってぐるりと回り込まないと行けないんですね~(^^;


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南側にはやや開けた場所があり、そこからほぼ正面に見ることができました。
櫓というと防御のための建物というイメージがありますが、ここでは生活の場として使われていたよう。
とはいえ万が一への備えのためか、窓の横には「矢狭間」「鉄砲狭間」がついています。

「備中櫓 概要
 備中櫓は本丸御殿の南西端に位置し、その名は鳥取城主池田備中守長幸(ながよし)に由来すると伝えられる。
 森藩時代の基本的な史料である『森家先代実録』には「備中矢倉 池田備中守長幸入来之説出来」とある。
 森忠政は長女於松(おまつ)を池田備中守長幸に嫁がせており、長幸は忠政の娘婿にあたる。
 その長幸が津山城を訪れるのを機に完成したのが備中櫓であったと考えられている。
 備中櫓跡の発掘調査で池田家の揚羽蝶紋の瓦が出土したことも、この建物が池田家と深い関係にあったことを物語っている。
 備中櫓の外観は漆喰仕上げで通常の櫓と同様だが、本丸御殿指図には備中櫓がその東に接続する長局・到来櫓とともに描かれており、
 これらの建物が御殿の一部として認識されていたことを示している。さらに指図によると内部には御座之間や茶室を備え、
 建具には「唐紙」(からかみ)を用いるなど、内部は完全に御殿建築であり、なおかつ繊細で女性的な仕上げであったことがわかる。
 そのためこの櫓は、本丸御殿の最奥部という位置からしても、城主にごく近い間柄の女性もしくは
 城主自身の生活空間の一部として用いられたと考えられている。
 このような特異な構造をもつ櫓は類例が少なく、津山城の建物の中でも特徴的なものであるため、
 復元整備の対象となったものである。」



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さらに300mほど坂と階段をのぼりながら進んで、ようやく「本丸」へとたどり着きました。
目的地は入口から見えているのに、あちこち遠回りするように道が伸びているのでなかなか大変でした(^^;
これは「天守」とは反対側、東側に連なる石垣を眺めているところ。
石垣には三角形になった階段が設けられ、どちら側からも石垣の上に上がれるようになっていました。
あるいは片方は上り、もう一方は下りとして次々に「鉄砲」を撃ちかけるためなのかもしれません。

「津山城本丸
 本丸は西端を石垣で区切って天守曲輪とし、その中央に天守が築かれました。天守は地下1階、地上5階で、最上階の屋根以外に破風をもたない
 層塔型と呼ばれる構造のものです。天守の高さは、天守台石垣を除いて約22メートルという大きなものでした。
 本丸御殿は、儀式や政務を行う表向きの御殿と、藩主の生活の場にあたる奥向きの御殿に分けられます。
 表向きの御殿は、「玄関」「大広間」「大書院」「小書院」で構成され、奥向きの御殿には、「料理之間」「台所」「居間」
 「主殿」(しゅでん)などが配されています。本丸の面積が狭いため、表鉄門(おもてくろがねもん)、長局(ながつぼね)、備中櫓など、
 防御用の建物を御殿の一部に取り込まざるを得なかった点など、築城の苦労がしのばれます。」



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「備中櫓」の内部は見学できるようになっています。
南側は市街地方面に向かって窓があるんですが、格子がはめ込まれているため見通しはあまりよくありませんでした。
これは壁?に施されていた「鶴」
どこかの空港で見たような意匠だったので、思わず1枚(笑)


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そしてこちらが「天守台」です。
当然ですが、城内では最も高い場所に位置しています。
石垣の高さは約6m、破却されてしまった「天守」はこの上にさらに22mもの高さがあったとのこと。
あわせると地上約30mにもなるんですね!

「天守台 概要
 津山城の天守は、地上5階建てで、最上階以外に破風を持たない質実な造りでした。高さは石垣を除いて約22メートルで、
 一般的な五層の天守としては最大規模のものです。形は、天守台の平面が正確な四角形で、上階が規則的に小さくなっていく
 「層塔型」と呼ばれるものです。この壮大な天守を支える礎石は、地下の穴蔵部分で確認されています。上から見ると、
 平らな礎石が並んでいる様子が分かります。絵図と比較すると、柱の位置と礎石の位置はほぼ一致しています。
 柱は、約38センチ角もある巨大なものであったことが分かっています。
 天守をはじめ城内の建物は明治7年から8年(1874~75)にかけて取り壊され、石垣を残すのみとなりましたが、
 その後昭和11年(1936)に開催された「産業振興大博覧会」の呼び物として、本来の天守の3分の2の天守が建てられました。
 「張りぼて」の愛称で親しまれましたが、空襲の目標になるという理由から、昭和20年8月に取り壊されました。」



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江戸末期~破却前に撮られたと思われる貴重な写真。
説明には「北西からみた、在りし日の津山城」としかなかったので、時期はわかりません。
5階建ての「天守」を中心に、多くの「櫓」が取り囲んでいるのがわかります。
手前に写る民家と比べると、「天守」のある場所はかなり高くなっていますね。


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こちらはさまざまな「天守」をまとめてパネルにしたもの。
上段左は「西からみた天守(津山絵図より)」で、この中ではもっとも古いものかと。
元となったのは1644年(正保元年)に将軍「徳川家光」が諸藩に命じて提出させた「正保城絵図」(しょうほうしろえず)というもののようです。
原本は「国立公文書館」に保存されているようで、「デジタルアーカイブ」版を見ることができますよ。
右は「CG」、下段は1936年(昭和11年)に開催された「産業振興大博覧会」に際して造られた「天守」です。
この「天守」は本来の3分の2ほどの大きさだそうですが、この写真を見ると違和感がありませんね。
ただ、上段の「絵図」などと比べると様式はずいぶん異なっています。
「博覧会」の目玉の1つとして建てられたとこから、史実に基づいてはいなかったということでしょうか。


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「天守台」の上に上がることができ、そこからの眺めはなかなか。
ただ写真にすると(腕のせいで)今一つだったので、「備中櫓」の北面の様子を代わりに(^^;


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最後は北側から城跡をパノラマで撮ったものです。
手前には水が張られていて、堀の跡のようでした。
なおこちら北側にも出入口はありますが、春の「津山さくらまつり」のときのみ開放されます。
そのほかの時期は出口専用となるので注意が必要です。
この右手、西側からぐるっと回り込むと高低差なしで南側にある入口に着けますけどね。



14枚目 iPhone5S
ほかはすべて D700+24-120mmF4G/VR


次回は後編、市内のスナップと食です。

by sampo_katze | 2018-08-08 21:00 | 山陰・山陽 | Comments(0)


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