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奥尻島津波館~北海道南西沖地震の記録と記憶
夏の奥尻島遠征2019・第4回


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「草原にたたずむサーブ340」


「奥尻空港」には定刻より少し早い11:50に到着しました。
出発地の「函館空港」は青空でしたが、こちらは残念ながら曇り空。
ただ幸い視界はよかったので、無事着陸することができています。
もし視界不良で滑走路が視認できなかった場合は、「函館空港」への折り返しもありますからね。

さて、「奥尻空港」のターミナルビルの前にはバス停があります。
これは「奥尻町」が運営しているバスのもの。
以前は島内に在住する方、およびその親族の方のためのものでした。
ですが、2017年11月からは島外からの来訪者も利用できるようになっています。
本数は少ないものの、おかげでバスを利用した島めぐりができるようになりました。

訪問時は時計回りの「神威脇」方面行きが13:27発、逆の「奥尻バスセンター」方面行きは14:18発。
「函館」からの便の到着時刻は11:50なので、少なくとも1時間半ほど待つ必要があります。
なので、島の南にある「青苗地区」まで歩いていくことにしました。
2kmほどと近いですし、雨も降っていませんでしたので。
なお今年2020年4月にダイヤが改正され「神威脇」行きは12:47発、「奥尻BC」行きは13:31発に変更されました。
これですと、島の西側をめぐることもできそうです。


表紙の写真は、空港から東に進んだところで撮った「サーブ340」です。
この辺りまで来ると見える人工物は空港のフェンスのみ。
まるで草原の中にたたずんでいるようでした。










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「青苗地区」へと向かう途中、滑走路の延長上の地点に来ました。
時計を見ると、もうすぐ折り返し「函館空港」へと向かう様子を見ることができそうです。
ということでしばらく待っていると、予想と逆の方向からやってきた!
いえ、単にわたしが方向を勘違いしていただけなんですが(^^;
あわててカメラを構え、なんとか飛んでいく「340」をおさえることができました。
こうして真下から撮る機会って意外とないんですよね。
まして相手が「340」となれば、これが最初で最後になるかも?
となると、青空であってほしかったところ。
まぁ、こればかりはしかたないですね。


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昼食は「食堂潮騒」でいただきます。
この地区にはいくつか飲食店はあるのですが、昼の営業をしているのはここだけらしい?ので。
けっこうお客さんが入っていて、少し待ちました。


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オーダーしたのは、おすすめの「あんかけ焼そば」
5月から8月末頃までならば島で獲れる「うに」を使った「うに丼」があったんですが。
とにかく具が豊富でボリュームがありすぎるくらい(^^;
でも満足感はハンパなく、おいしかった。


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食後は、「奥尻島津波館」へと向かいます。
島の最南端の「青苗岬」(あおなえみさき)にあって、「潮騒」からは南へ約1kmほど。
入る前に建物の外観を撮ろうとしていたら、急に雨が降ってきてしまいました(^^;
この写真は見学のあとに撮ったものです。
館内にはコインロッカーなどはありませんでしたが、スタッフの方が荷物を預かってくださいました。

さて、この建物では1993年(平成5年)7月12日に発生した「北海道南西沖地震」に関する資料を展示しています。
ここ「奥尻島」では特に大きな被害を受けたことから「奥尻島地震」と呼ばれることも。
マグニチュード7.8、推定震度6の「烈震」で、近代以降に「日本海」側で発生した地震では最大規模です。
ただこの1年半後の1995年(同7年)1月17日に「兵庫県南部地震」、いわゆる「阪神・淡路大震災」が発生。
そちらのインパクトが大きいため、「奥尻島」の地震についてはあまり知られていないかもしれません。
わたしも2011年3月の「東日本大震災」の方が印象が強いですね。


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まずはパネル展示から。
こちらは震災前の「青苗岬」の航空写真で、北西方向から眺めたところです。


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つづいては震災直後の様子で、南側から見たところ。
この地震の震源は島の中心から北北西に約75kmと近いところにありました。
そのため、地震発生から数分ほどで津波が島に到達。
その「遡上高」(そじょうこう)、津波が内陸にかけ上がった標高は最大で30mを超える大津波でした。
「青苗地区」では最大6.7mだった上、繰り返し津波が押し寄せたことから大きな被害を受けています。
また火災も発生し、被害がさらに拡大しました。


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そして、時期は不明ですが岬付近の整備が終わったころの様子。
岬の先端付近は緑地になり、この「奥尻島津波館」もここに建てられました。
「青苗漁港」の東側の防波堤などは大きくなり、東側の住宅群はかさ上げされた上に建てられています。
さらにそこから西側の高台へは、徒歩での避難ができるよう通路も整備されました。


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津波の被害を受けた「青苗漁港」の様子。
多くのがれきが流れ着いています。

「津波の爪痕
 烈震 北海道南西沖地震 平成5年7月12日22時17分発生
 たった数分だった。しかしすべてを失うには十分だった。
 残ったのは絶望と虚脱感。自然の前ではすべて無力だった。」

※説明板より引用、以下同じ


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その横に置かれていたのが標柱。
津波でさらわれ「日本海」を漂流していたものです。
「兵庫県bの北西部にある「浜坂町」(はまさかちょう)、
現在の「美方郡新温泉町」(みかたぐん しんおんせんちょう)の海岸に漂着しました。

「津波で漂流した標柱
 北海道南西沖地震による津波でさらわれた奥尻島の工事標柱が、同じ日本海に面した兵庫県浜坂町に漂着した。
 白いペンキが一部剥がれ落ちるなど、かなり傷んでいたが、
 『工事名 奥尻島線道路災害防除工事その2』『発注者 函館土木現業所』などの文字がくっきり残っていた。
 標柱は一旦サハリン沖まで流され後、大陸沿岸、朝鮮半島に沿って南下、
 再び対馬海流に乗って浜坂町の海岸にたどり着いたとみられる。」



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「標柱」の漂流したルートの予想図。
津波の後、「対馬海流」に乗って「サハリン」沖まで北上。
そこから大陸に沿って南下し、再び「対馬海流」に乗って漂着したものと考えられています。
海流によっては、そのまま「奥尻島」に戻ってきた可能性もありますね。


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地震の揺れの大きさを物語る1枚。
この灯台は「津波館」から北へ200mほどのところにある「青苗岬灯台」です。
1955年(昭和30年)8月に初点灯されたもので、高さは16mあります。
それが根元から折れてしまい、傾いてしまっています。
ただかろうじて倒壊することはなく、さらには灯光も絶えることがなかったとのこと。
震災の翌年に再建され、現在に至ります。

「根元が折れた灯台
 青苗岬の灯台は地震の強烈な揺れに耐えられず、基礎部位から折れてしまった。
 しかし、灯光は途絶えなかった。津波に呑まれた被災者のうちには、
 ここの燭光に導かれて助かった人がいる。
 (1993年7月13日7時15分撮影)」



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津波の発生とその伝播(でんぱ)の様子。
左上の赤い点が震源で、左上から順に発生直後、30秒後、1分後、
中段が2分後、3分後、5分後、下段が8分後、11分後、14分後となっています。
これによれば発生直後、震源から南に向かって細長く津波が発生していることがわかります。
さらに島や「北海道」本島のある東側への広がりが早く、到達までそれほど時間がなかったことも。
8分後には「青苗岬」から反時計回りに巻き込むような動きも見せています。

「津波のメカニズム(北海道南西沖地震)
 この地震は、規模が大きく震源の深さが34kmとかなり浅かったため、
 海底の揺れが海水に直接作用して、大きな津波を発生させたといわれています。
 出典 北海道南西沖地震奥尻町記録書」



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「奥尻島」の名所の1つ、「鍋釣岩」(なべつるいわ)の模型。
鍋のふたにつける取っ手の「弦」(つる)に似た形をしていることからその名があります。
島の北東にあり、「奥尻フェリーターミナル」からは1kmほどです。
岩の高さは約20m、周囲は約100mとかなり大きいもの。
どうしてこんな形になったのかは、ここでは省略します(^^;


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震災によって一部が損壊し、左上の部分が細くなってしまいました。
また周辺の地盤が1mほど沈降したため、陸続きではなくなってしまったとのこと。
干潮であればぎりぎり近くまで砂浜が伸びているようでしたが。


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最後は「青苗遺跡」から発掘された「丁字頭勾玉」(ちょうじがしらまがたま)。
「新潟県」の最西端にある「糸魚川」(いといがわ)産出の「ヒスイ」でできています。
説明によれば3~6世紀頃に作られたものとのこと。
古くから南北の交流があったんですね。

「丁字頭勾玉
 奥尻町出土の丁字頭勾玉は、昭和51年、青苗遺跡の発掘調査により、墳墓の中から副葬品として、
 ガラス玉、水晶玉、水晶の切子玉や鉄製の刀と共に発見されました。
 丁字頭勾玉の特徴は、頭部に3本の刻み文様が施されていることです。
 現在知られているところでは、北海道・東北地方合わせて唯一の発見例という貴重なものであり、大きさにおいても日本有数のものです。
 3~6世紀頃の近畿地方において制作され、当時の社会で権力と権威を示すシンボルとして機能していたと考えられています。
 平成20年に実施した化学分析の結果、新潟県・糸魚川(いといがわ)産のヒスイであることが確認され、
 奥尻にもたらされたのは、墓の副葬品の特徴から6世紀以降と考えられています。
 6~7世紀における奥尻島は、北からはオホーツク文化が渡来し、丁字頭勾玉など南の文化をもたらした人々と、交易を行っていました。
 これは、「日本書紀」に記述された斉明6年(さいめい 西暦660年)における阿倍比羅夫(あべのひらふ)の遠征が、
 この史実を反映したものではないかと推測されています。
 このことから、丁字頭勾玉は、奥尻島が南北文化の交流基地として繁栄していた時代を物語る貴重な歴史の証人なのです。」




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次回は、青苗岬を歩きます。

by sampo_katze | 2020-11-06 21:00 | 北海道 | Comments(0)


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