冬の網走訪問2019編・第8回
「博物館網走監獄」には、全部で8棟の「国の重要文化財」に指定された建物があります。 いずれも100年以上の長い間、「北海道」東部の厳しい風雪に耐えてきた貴重な建物です。 もちろん、いずれも木造。 1909年(明治42年)には「山火事」の飛び火が原因の火災が発生し、ほとんどの建物が焼失したようですが 離れた場所にある支所の建物は健在。 それらの建物も移築・復原され、見ることができます。 まずは支所にあった建物群を見ていくことにします。 表紙の写真は、少し奥まったエリアにある「旧網走刑務所二見ケ岡刑務支所」の外観です。 「二見ケ岡」はここから「網走湖」をはさんで、西へ約5kmほどのところにあります。 1896年(明治29年)の設置当時は「屈斜路外役所」(くっしゃろがいえきしょ)と呼ばれていました。 当時から「農場」が併設されていて、収容者の食糧供給の場として活用されているとのこと。 こちらは「庁舎」、収容者が入る「舎房」、「炊場」など5棟の建物がならび、 いずれの棟も渡り廊下でつながっています。 「旧網走監獄 二見ケ岡刑務支所 国指定重要文化財 この建物は、網走刑務所の農園作業の先導的施設として明治29年に網走の西方丘陵地に 「屈斜路外役所」として設置されました。網走湖、能取湖(のとろこ)の二つの湖を眺望できる位置に建設され その後「二見ケ岡刑務支所」として改名されました。1世紀を超えた今日も、網走刑務所収容者の食糧を担う場所として、 また広い農場で収容者が作物の管理から収穫まで自律的に行う開放的処遇施設として重要な役割を果たしています。 現存する木造刑務所として最古で平成11年博物館に移築しました。 各建物の建築年代は、庁舎、舎房、炊場が創建当時の明治29年、教誨堂(きょうかいどう)及び食堂が大正15年、 鍵鎖附着所が昭和5年です。明治29年当時は各建物が独立して建っていましたが、大正以降施設の重要性が 高まるとともに必要な建物を整え、渡り廊下で接続し、庁舎も改築され、ほぼ現状の586坪の農場施設になりました。」 ※説明板より引用、以下同じ オレンジ色の「囚人服」をまとった収容者が食事をとっています。 厳しい環境のなか、唯一の楽しみでありひとときであったことでしょう。 「食堂 受刑者が食事を取る食堂として使用されていました。 毎日の食事は受刑者にとって、明日の労働への意欲となるためとても大切なものでした。 自ら二見農場で育てた作物を収穫し食すことで、農業、労働の尊さを体感したのでした。 テーブルと椅子が設置されていましたので、受刑者は決められた席に座り、 配膳係が配る食事を残さず食べたそうです。」 1909年(明治42年)の火災後、新たに建てられたものです。 従来は建物が横並びとなる配置でしたが、監視のしやすさを考えて放射状に伸びる配置に変更となりました。 上から見ると横方向および斜め上に2棟、上方に1棟の5方向に伸びています。 そして、その結節点に八角形をした「見張り所」が設けられています。 「旧網走監獄 舎房及び中央見張所 国指定重要文化財 この舎房は明治42年の火災で焼失後、それまでの並列型の舎房に代って、同45年に再建された 放射状の旧網走監獄 舎房です。 中央見張りを中心に雑居房・独居房・鎧格子・矢筈格子(やはずこうし)といった独特の建築技法を採用し、 昭和59年9月まで使用されていました。明治時代の獄舎の名残を完全にとどめる舎房としては国内最大規模で、 ことに木造では現存する我国最北端の監獄として学術的に貴重なものとされています。」 「五翼放射状平屋舎房(建築面積3,333.72㎡) 明治政府は諸外国に劣らぬ近代的獄舎の建設を進め、イギリスを中心に定着していた放射状獄舎の導入を決めました。 網走においてはベルギーのルーヴァン監獄を模倣してこの獄舎を建築しました。放射状の五棟が中央見張り所で 連結しているので、226室の舎房を効率よく管理できます。また天井採光窓ガラスが埋め込まれ光が差し込み、 衛生面など随所に利点があります。上空から見ると人間の手の指を五本広げたように見える舎房は 明治45年(1912年)から72年間に渡り使用されており、昭和60年(1985年)に当博物館に移築復元しました。 平成17年(2005年)国指定の有形文化財に認定されています。」 「猟銃」は屋外での作業時、囚人の逃走防止や「クマ」などを追い払うために使われていたそう。 「サーベル」については、先の「二見ケ岡支所」の「食堂」にいる看守が腰に下げているのが見えますね。 「猟銃 網走監獄の看守は、山の中や広大な畑での作業に囚人を連行しますので、 銃の携帯が義務づけられていました。囚人の逃走防止のためだけでなく、 熊などを追い払う意味でも必要なものでした。」 「サーベルと刀 サーベルは多くの国の軍隊で軍刀として使用されていたので監獄の看守にも 携帯が義務づけられていました。柄には護拳(ごけん)と呼ばれる枠状、 もしくは半円の大きな鍔(つば)がついており、指や手を保護するようになっています。 典獄(てんごく)、看守長など階級により品質、長さが異なっていました。」 こちらは1部屋に3~5人が収容される「雑居房」、現在でいう「共同室」が並びます。 全部で32室が並んでいるとのこと。 「雑居房 部屋の広さ6畳(9.9㎡)、収容定員3名~5名です。この房は壁の格子に特徴があり 鎧格子(斜め格子)となっています。菱形の柱を斜めに組んでおり、等間隔に隙間をおきながら 作られているため廊下側からは部屋の中が見えますが、部屋の中から廊下をはさんで 向かい側の部屋の中は見えないように作られています。」 「第一舎 雑居房総数 32房 広さ 9.90㎡ 1房当たり収容定員 3人~5人」 木製の床に直置きすると火災が発生する恐れがあるので、このようなものが置かれたんですね。 ただ極寒のこの地では、十分な暖を得られたのかな?と。 晴れていてこの気温ですから、雪が降っていたらいったい何℃になるのやら(^^; 1人目は「明治の脱獄王」として知られた「西川寅吉」、通称「五寸釘寅吉」。 盗みに入ったところを見つかり、その際「五寸釘」を踏み抜きながらも12kmにわたって逃走。 さらに収監された後、6回も脱獄に成功したんだそう。 左上にあるのが「五寸釘」の実物で、長さは約15cmもある大型のもの。 痛みも相当なものだったと思われますが、それに耐えて逃走を続けたというのはスゴイの一言です。 さらには和紙とご飯粒を使って扉の合い鍵を作ったり、約3mもある塀を乗り越えるなど 常人には考えられないことを成し遂げています。 「近代監獄史上随一の脱獄記録を持つ男 明治の脱獄王、西川寅吉-通称五寸釘寅吉 五寸釘を踏み抜きながら、12kmを逃げ切った男。 並はずれた身体能力と彼を慕う囚人仲間の協力を得て、脱獄に成功すること6回。 三度(みたび)生まれ変わっても服役しきれぬ刑期を負いながら、最後に送られた網走監獄で改心。 奇跡的な出獄を果たし、最期は息子の家で大往生を遂げたという稀代の脱獄王。 明治の脱獄王として有名な通称五寸釘寅吉は、三重県に生まれ若いころから伊勢屈指の丁半博打(ちょうはんばくち)の いかさま師として知られていました。五寸釘の名は、盗みに入ったところを巡査に発見されて土塀を越す際、 五寸釘を踏み抜き、そのまま約12kmも走って追跡をかわしたことからついた異名だといいます。 強盗や窃盗を重ね、投獄されては逃走を繰り返し、通算6回の逃走を成功させていますが、 これほどの逃走を可能にしたのは、寅吉の並外れた身体能力とともに、他の囚人の協力があったからだといわれています。 6回目の逃走後埼玉でつかまり、釧路分監に移送されてからは反省の色が見えるようになります。網走監獄においては、 最終的に表門を清掃する「晒掃夫」(さいそうふ)という最も信用のある囚人が用いられる役に取り立てられました。 大正13(1924)年、71歳を迎えた寅吉は高齢のため刑執行停止となり、長い監獄生活に終止符を打ちました。 その後「五寸釘寅吉劇団」という一座を組み、ざんげ談や脱獄談を語って全国を巡った後、 昭和の初め故郷の三重県に帰り、息子に引き取られて平穏な生活を送り、畳の上で大往生を遂げたということです。」 「五寸釘寅吉超人伝説 高い身体能力と囚人仲間の協力を得て脱獄すること6回。明治の脱獄王の脱獄伝説を検証してみよう! これが五寸釘! 盗みに入ったところを巡査に発見され、土塀を越えて逃げた時、踏み抜いてしまったという五寸釘。 こんなに長くて太い釘が足を貫いたままの状態で、3里(約12km)も逃げたそうです。 この鍵を開けることができた? 寅吉のために、囚人仲間が看守に隠れて、和紙とご飯粒で合い鍵を作ってくれたという逸話があります。 この話が真実であれば、その合い鍵で開けた鍵はここにあるものと同じです。 寅吉はこの鍵を開けて樺戸集治監(かばとしゅうちかん)から脱獄したということになります。 網走監獄舎房の扉についている鍵の実物です。レバーを下げて、取っ手を回して扉を開けてみてください。 樺戸集治監で寅吉がいた当時、同じ鍵が使用されていたと考えられます。 寅吉が越えた塀の高さは? 寅吉が逃走をした樺戸集治監の塀の高さは約3m。寅吉の身長の倍近くある塀をどのように越えたのでしょうか? 囚人仲間が小便をかけた獄衣を塀にたたきつけ、その一瞬の吸着力を利用して塀を越えたという話が伝えられています。 雪にまぎれて消えた寅吉 屋根の雪下ろしをした日、獄舎と塀の間に積み重なった雪が塀と同じくらいの高さになった時、囚人仲間が いっせいに雪を投げ、その雪けむりの中を逃げたという話も残されています。塀の下には、白い布が用意されていて、 それを身につけた寅吉は、雪にまぎれて逃走に成功したといいます。」 「五寸釘寅吉」の脱獄術もスゴイですが、「白鳥」はさらにスゴイ。 回数こそ4回と少ないものの、その内容はリアル「ルパン三世」? 「不屈の精神と型破りな手口で脱獄 昭和の孤独な天才脱獄魔、白鳥由栄(しらとりよしえ) 天才脱獄魔といえばこの男。この男をモデルにいくつもの脱獄小説が生まれている。 緻密な計画、大胆不敵な行動力、超人的な体力、そして巧みな人心掌握術で、脱獄すること4回。 特別厳重な監視をしていた網走刑務所からの脱獄にも成功。 その後、府中刑務所で反抗的な態度が一変し模範囚に。不可能と言われた仮出所を遂げた、孤独な天才脱獄魔。 昭和8(1933)年に青森市で強盗殺人を犯した白鳥由栄が、2度の脱獄を経て網走刑務所に移送されてきたのは、昭和18(1943)年。 その前の秋田刑務所では、脱獄不能とされていた鎮静房(ちんせいぼう)から脱獄していたため、 網走刑務所では専用の特殊な手錠、足錠をはめられていました。そのような厳重な監視下にありながらも、 約半年にわたる入念な準備によって3回目の脱獄を成功させています。 昭和22(1947)年施行された日本国憲法により、受刑者に対する人権重視の処遇方針が出されましたが、 白鳥はちょうどそのころ東京の府中刑務所に移送されました。反抗心が強かった白鳥ですが、 これまでと全く違う扱いにすっかり落ち着き模範囚となりました。一生刑務所で過ごさなければならない程の懲役を科せられていましたが、 府中刑務所に移ってから13年後の昭和36(1961)年に、奇跡的に仮出所を果たしました。 その後は真面目に働き、仮出所後一時期住んでいた荒川区のアパートでは、隣部屋に住む子を自分の娘のように可愛がるなど、 穏やかにくらしていたようです。白鳥は昭和54(1979)年亡くなりましたが、遺骨は荒川区のアパートで可愛がっていた 隣部屋の娘さんに引き取られ、その家のお墓に納骨されたといいます。」 「白鳥由栄の驚愕の脱獄術 奇抜な発想、緻密な計画で、執念の脱獄4回。驚愕の脱獄術の一端に触れてみよう! ここをくぐり抜けた? 白鳥が抜け出した舎房の扉と同じものです。頭さえ出せれば体も出るといいますが、体格のいい白鳥が、 こんな小さな視察孔(しさつこう)抜け出したとは、にわかには信じがたい話です。しかし、まぎれもない真実です。 味噌汁が脱獄のキーアイテム! 視察孔にねじ留めされていた鉄枠は、どのように外されたのでしょうか?白鳥はネジに毎日味噌汁をかけ、 その塩分でネジを腐食させて外したそうです。執念ともいえる根気強さと、あまりにも意外な発想。 まさに天才といえる手口です。 白鳥が越えた塀の高さは? 白鳥が越えた網走刑務所の塀の高さは約4.5m。この高さをどのように越えたのでしょうか? 工場の煙突の支柱になっていた丸太を引き抜き、塀に立てかけて越えたそうです。刑務所内の建物配置を 詳しく知らないはずの白鳥が、煙突のある場所にたどり着き、地中深く入っていた丸太を抜いて運んだのです。 しかも、それらをわずかな時間でやってのけたことに驚きます。 壊した手錠4個! 驚くべきことに、白鳥は手錠を破壊してしまいました。網走刑務所入所後、2か月間に壊した手錠の数は、なんと4個。 怪力で次々と手錠を破壊する行為は刑務官たちへの挑発でもあったといいます。 網走刑務所に残された写真です。「無期懲役白鳥由栄が独居房内で手錠を解錠し、湾曲部を鉄格子で曲げて 壊したもの(昭和18年5月)」とあります。」 頑丈な鉄格子がはめられているので、普通では破壊することなど考えられません。 ですが「白鳥」は長い期間「みそ汁」をかけることで、ネジに塩分による腐食を発生させます。 そしてネジを外し、鉄格子を取り外してしまったんだそう。 「視察孔 網走刑務所の建物は重警備刑務所として、簡単に脱獄できないように工夫されています。 舎房扉の鉄格子も破壊が不可能なように二重ボルトで締められています。 しかし、長い歴史の中で、ただ一人、この鉄格子を破壊し脱獄した人物がいました。 それが、昭和の脱獄魔白鳥由栄です。」 実際に計ってみると幅は約45cm、高さは約20cmほどしかありません。 「白鳥」の体格がどんなものだったのか、「体格がいい」としか書かれていないのでよくわかりません。 とはいえ一般の成人男性がくぐり抜けるのは至難、というか不可能に近いでしょう。 でも実際にここをくぐり抜けたというのですから、まさに「脱獄魔」の名にふさわしいですね。 こちらの小さなレンガ造りの建物は「独居房」です。 明治時代に内部規則を守らない収容者が、懲罰のため一定期間ここにいれられたそう。 正面に小さな扉があるほかは窓1つなく、内部は真っ暗。 その上でさらに食事も減らされたのですから、とても大変だったようですね。 「煉瓦造り独居房 明治時代、監獄内の規則を守らない者には食事の量を減らし、一定の期間生活させる罰がありました。 窓のない真っ暗な、この独居房での生活は受刑者にとって大変つらい生活でした。 この煉瓦造り独居房は、明治末期に造られ、平成3年3月に博物館網走監獄に移設しました。」 左の建物の上部には窓らしきものがはめ込まれていますね。 でも中から見たわけではないので、どうなっているのかはわかりません(^^; 「懲罰房 これは樺戸(現在の月形町 つきがたちょう)集治監(しゅうちかん)の懲罰房です。 この房の立ち並ぶ周囲は木塀でおおい、その中を闇堂(やみどう)といい、房は外から光が入らないようにつくられ 「闇室」(やみしつ)とよばれました。 獄内規則を犯した受刑者が7昼夜重湯(おもゆ)のみがあたえられて入居させられました。」 僧侶や牧師などの宗教者がここを訪れ、収容者を後世に導くために造られました。 戦後になると舞台が造られ、さまざまな用途に使える場所となっています。 「旧網走監獄 教誨堂 明治23年に釧路監獄署網走外役所として設置されて以来、農業監獄として整えられた明治30年代の網走監獄建物群は 北海道集治監樺戸本監や北海道集治監釧路分監の建物群をしのぐ優れたものであったといわれています。 しかし、これらの建物は明治42年の火災によってことごとく焼失してしまいました。 この旧網走監獄 教誨堂は明治45年の復旧時に建てられたものですが、受刑者たちは「ここは神仏が宿る家だから」と、 どの建物よりも精魂こめて造ったといわれています。ここでは、宗教心を持つことの大切なことが説かれ獄則を守り、 希望をもって再生への道を歩むことが教え導かれました。 戦後は、教誨堂で軽スポーツや、舞台が造られて演芸会や映画会が催され、受刑者達の唯一の憩いの場になりました。」 「教誨とは、僧侶、牧師などの宗教者が刑務所を訪れ、受刑者に人の道を説き犯罪ですさんだ気持ちを和らげ 更生へと導くことを言います。明治45年(1912年)建築の材料も作業で山から切り出した木を使って作りました。 瓦も網走監獄の窯で焼いたものです。宗教的な意味合いのある建物ですので「神仏の魂を宿す建物だ」と 特に精魂込めて作ったといわれています。 戦前(1945年)まで網走の教誨事業は、仏教の浄土真宗東本願寺系の宗派が行っていたので、 正面には仏壇をこしらえ阿弥陀如来像を安置していましたが、戦後は舞台に改造し多目的に使えるようにしました。 昭和56年(1981年)に移築復原し、平成17年(2005年)国の有形文化財に認定されました。」 その中央には「阿弥陀如来像」が祀られ、戦前までの様子が再現されていました。 「教誨法会 1200名の罪囚を収容して創設された網走刑務所はその後500名~700名の収容人員を維持し続けたが 昭和25年には1600名を超えるに至った。その間の死者は981名でその内訳は病死者883名、変死者75名、 死因不詳者23名であった。これらの死者のうち引取人のない遺骸は現刑務所の裏山にある墓地に埋葬された。 大正4年には釧路分監創設以来の受刑者、職員の死者579名もここに合葬され、以来毎年春秋には職員・家族に 受刑者の代表も加って読経法会(どきょうほうえ)が行われた。 一方教誨堂では月一回の総囚教誨・法会が行われたほか受刑者の両親・妻子が死亡したときは作業が3日間免除されて 喪に服し教誨師による読経回向(えこう)も許され、受刑者が死亡したときは親しかった同囚も参列して回向が行われた。 ※文中死因のうち変死者とは縊死(いし)・中毒死・溺死・抵抗惨殺で死因不詳者は死因記載なきものと 網走分監史は記録している。」 「鎮魂のお堂 古建築文化財の保存を目的に移築された教誨堂は罪囚が明日の更生を誓い心の安らぎを求めたところであり、 本道開拓の礎となって亡くなった罪囚の鎮魂のお堂でもあります。 ここに資料以外に展示されております書画等は、霊よ安らかなれと心をよせられた方々からおくられました。 合掌」 すべて D700+24-120mmF4G/VR 次回は、監獄食堂でのランチと凍結する網走湖沿い散策です。
by sampo_katze
| 2021-01-16 21:00
| 北海道
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