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須崎名物でランチ&高知城へ
高知空港周遊2020編・第10回


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「高知駅前へファイナルアプローチ」


2日目はまず「とさでん」に乗ってプチ散策です。
「はりまや橋」から「出雲大社土佐分祀」「坂本龍馬生誕地」をめぐってきました。
そこから「高知城」へと行きたかったんですが、高台にあるので後回し。
というか、登城してしまうと昼ごはんが遅くなってしまいます。
「高知空港」からの出発前に空港内で食事をとる予定にしているので、あまり遅くしたくない。
ということで、「とさでん」に乗って「高知駅前」へと戻ります。


表紙の写真は、「高知駅前」に向かう「とさでん」の前方展望です。
どの車両かは忘れましたが比較的新しい車両のようで、大型の窓が採用されています。
おかげで見通しがとてもよく、かぶりつきには最適でした。
「高知駅前」はその名の通り、「JR」の駅には直結しておらずロータリーの道路をはさみます。
線路とロータリーが別になっていると、安全でいいと思うんですけどね(^^;










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さて、昼ごはんをいただくのは「鍋焼きラーメン千秋」というお店。
「高知駅」北口から歩いて3分のところにあります。
黄色い看板とのれんが目印です。


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看板には「元祖」「須崎名物」の文字が。
「須崎」(すさき)は「高知市」の南西約30kmのところにあり、本店もそちらにあるようです。
そしてこちらは2号店とのこと。
さらにこの年2020年8月には「愛媛県松山市」にも開店したようです。

開店は11時で、10分ほど過ぎていましたがまだ待っている人はいませんでした。
人気店だと聞いていて、待つのは避けたかったのでよかった。


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のれんの端には「ラーメン」のキャラクターが描かれています。
その横には「©やなせたかし」の文字が。
このキャラは「なべラーマン」というそうで、もちろん「やなせ」先生の作です。


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開店して間もないので待ち時間なく店内へ。
カウンターの上には「鍋焼きラーメン」のポスターがありました。
右のキャラクターは「須崎市」のゆるキャラ「しんじょう君」
同市で最後に目撃された「二ホンカワウソ」がモチーフで、「鍋焼きラーメン」の帽子をかぶっています。

「須崎名物 鍋焼きラーメン
  喰いつくせるか 須崎の路地ウラ 鍋の底。
 日本一熱い『須崎名物 鍋焼きラーメン』
  半世紀以上にわたって須崎で食べ続けられている日本一熱い「鍋焼きラーメン」。
  鶏ガラだしに醬油ベースのスープに細めのストレート麺、トッピングは青ネギ・ちくわ・生卵と
  いたってシンプル。昭和20年代に須崎の路地裏にあった谷口食堂が発祥。」

※説明文より引用、以下同じ


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お品書きはシンプルそのもの。
「鍋焼きラーメン」「ご飯」、そして「瓶ビール」だけです。
サイズはそれぞれ比較的わかりやすく書いてあるのがうれしいところ。
口コミによると、おススメは「麺の大+ご飯」らしいです。
「ご飯」の量はお好みでどうぞ。


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オーダーすると木製の鍋敷きが出てきます。
動物のシルエットなんですが、なんの動物かはわかりません(^^;
個人的には「ブタ」さんかな?と思うのですが。


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オーダーから5分ほどで着丼。
小さめの土鍋にグツグツと煮立った状態で出てきます。
表面が小さく泡立っているので、その熱さが想像できるかと(^^;
わたしは猫舌ではないのですが、さすがに最初は熱くて食べるのに一苦労!
でもこの熱々もまたおいしい♪
そして麺を食べたら、いっしょにたのんだ「ご飯ミニ」を入れて「雑炊」にして〆。
ごちそうさまでした(^∇^)


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昼ごはんのあとは再び「とさでん」に乗って移動、「高知城」へと向かいます。
これは「千秋」に向かう前、「高知県庁」前から眺めたところ。
かなり高いところに「天守」などがあるのがわかります。


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昼食後、再び「とさでん」に乗って「高知城前」停留所へ。
そこから北へ250mほど進むと「追手門」(おうてもん)があります。
「大手門」(おおてもん)と同じ読みなのですが、違う書き方になるのかはよくわからず(^^;
とにかくここが正門にあたる場所であることは間違いないようです。
積み上げられた石垣や重厚なつくりは圧倒される迫力がありますね。


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屋根上の左右には「鯱」(しゃち しゃちほこ 魚へんに虎)が置かれています。
哺乳類の「シャチ」と呼び名は同じですが、こちらは想像上の動物です。
頭が虎で体が魚、頭を下にして尾びれは空に向けてそり返っています。
火事のときは水を噴き出して火を消すとされることから、防火の守り神でもあるとか。
ここの「鯱」の口元には草が生えていて、ちょっとおもしろかったですね。


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門に向かって左手には「國寶 高知城」の石碑が立っていました。
元は「国宝」でしたが、戦後に法律が変わったことで「国指定重要文化財」になっています。

「国宝の碑について
 昭和9年「国宝保存法」により国宝に指定されましたが、その後昭和25年に「文化財保護法」が
 制定されたことにより天守閣を始め15の建造物が国の重要文化財に指定され、現在は国の重要文化財です。」



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門の右奥、少し高くなったところには「土佐藩」の初代藩主「山内一豊」(やまうちかずとよ)の騎馬像が。
身の丈の倍はありそうな長槍をたずさえ、いざ出陣!といった感じですね。

「山内一豊の銅像
 土佐藩初代藩主山内一豊は、天文14年(1545)生まれ。13歳の時尾張国(愛知県)岩倉城主・織田伊勢守信安に
 仕えていた父が戦死し、母や幼い兄弟とともに流浪した。天正元年(1573)豊臣秀吉に従って織田信長の
 朝倉・浅井攻めに出陣して武功を上げた。以後も秀吉の麾下として各地の戦いに参加し、
 次第に頭角をあらわして近江国(滋賀県)長浜2万石の城主から、天正18年(1590)小田原攻めののち
 遠州(静岡県)掛川5万石を領した。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの功績により、土佐一国24万石を与えられ翌6年入国、高知城の築城と並行して
 城下町を整備し、現在の高知市の基礎を形作った。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と三代の天下取りの間を
 生き抜いて出世したただ一人の武将といえる。
 慶長10年(1605)9月20日没。61歳。
 この銅像は大正2年(1913)に建設された銅像の原型をもとにして平成8年(1996)9月20日に再建除幕された。」



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最後は「山内一豊の妻」の銅像。
出自はよくわかっていないようですが、「一豊」の出世に大きく関わっていたことは間違いないですね。

「山内一豊の妻の銅像
 山内一豊の妻は、弘治3年(1557)生まれ。通称千代といわれているが、これを裏づけるたしかな資料はない。
 出身についても通説では近江国(滋賀県)浅井氏の家臣若宮友興の娘とされているが、近年では美濃国(岐阜県)
 八幡城主遠藤氏の娘ともいわれている。
 幼い頃父を失い、17、8歳の頃一豊と結婚、貧しい暮らしの中で家を守り、戦いに明け暮れる一豊の出世を
 助けた逸話が残されている。中でも結婚の時持参した10両の金を出して一豊に名馬を買わせ、
 それが織田信長の目にとまって出世の糸口になった逸話は広く知られている。
 また、関ヶ原の戦いの前に、笠の緒に縒りこめた手紙で関東にいる一豊に大阪方の情報を知らせ、
 その進路を決定づけさせたことが一豊の土佐一国領主への道を開くことになった。手芸や文筆にもすぐれ、
 賢夫人として知られる。元和3年(1617)12月4日、京都で没、61歳。法号 見性院(けんしょういん)。
 この銅像は昭和40年(1965)2月26日に除幕された。」




1~8枚目 iPhone5S
9~14枚目 D700+24-120mmF4G/VR


次回は、高知城に入ります。

by sampo_katze | 2022-02-19 21:00 | 四国 | Comments(0)


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