2018年 10月 17日 ( 1 )
国宝・松江城の天守
マイル修行で松江訪問編・最終回


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「雨にぬれた散りはじめの桜とともに」


「松江城」では、毎年「桜」の咲く時期に合わせて「お城まつり」を開催しています。
今年は3月24日(土)から4月15日(日)の間で、その期間中は様々なイベントが行われます。
わたしが訪ねた4月7日(土)は、午後から「松江武者行列」が実施される予定でした。
ですが、あいにくの雨だったために中止となってしまいました。
「行列」に参加するはずの「馬」が、城近くの道をポコポコと歩いている様子が見られましたね。
あ、もちろん人が引いて一緒に歩いていましたよ(^^;

さて、「興雲閣」に立ち寄ってからいよいよ「天守」へと参ります。
「松江城」は1611年(慶長16年)に落成し、「天守」は1738年(元文3年)から1743年(寛保3年)にかけて大改修が行われています。
このときに現在の姿になったとされていて、全国に12ある「現存天守」の1つに数えられています。
また2015年に「天守」が「国宝」に指定されています。
実は1935年(昭和10年)に当時の「国宝保存法」により1度指定されていたんです。
ですが、1950年(昭和25年)に施行された「文化財保護法」により「重要文化財」に変更されました。
65年ぶりの再指定だったんですね。


表紙の写真は、「本丸」に入ったところから眺めた「天守」です。
超がつくくらい定番な構図ですが(^^;
「桜」の枝もちょうどいい感じで伸びていて、ほんといい感じ。
でも前回も書きましたが、今年は時期が早かったようで4月初めの週末だというのにもう散りはじめ。
葉っぱも目立ち始めていて、まるで「オオシマザクラ」のようでした。
これが青空で、しかも「桜」が満開だったら・・・・・と思わずにはいられません。

「史跡 松江城  昭和9年5月1日国指定
 堀尾氏は豊臣秀吉、徳川家康に仕え、関ケ原の合戦で武功をたてた堀尾忠氏(ほりおただうじ 堀尾吉晴(よしはる)とする説もある)は
 慶長5年(1600)出雲・隠岐両国24万石(23万5千石とする説もある)を与えられ、広瀬の富田城に入城した。
 しかし、富田城はその周辺を高い山に取り囲まれ大砲などを使う近代戦に不利であったことと、侍を住まわせるに広大な城下町を
 形成しなければならなかったことなどの理由からこの極楽寺山(亀田山とも言う)に城地を移した。
 築城工事は、慶長12年(1607)から足かけ5年を費やし慶長16年(1611)に一応の完成をみた。城地の広さは東西360メートル、
 南北560メートルあり、周囲に20~30メートルの内濠をめぐらす。
 標高28.1メートルの頂上部に本丸を置き、荒神櫓をはじめ6か所の櫓とそれをつなぐ細長い多門がめぐっている。
 天守は本丸の東北隅に築かれている。二之丸は本丸の南側に一段低く隣接し御書院や御広間などがあった。本丸の東側の平地は
 二之丸下の段と呼ばれ、藩士の扶持米などの米蔵が立ち並んでいた。
 その他、本丸の周辺には腰曲輪、中曲輪、外曲輪、後曲輪があった。城山(じょうざん)の南には三之丸(今の県庁附近)があり
 藩主の御殿があった。
 石垣用の石材は、松江市の東部、大海崎、福富地区の山麓から産出する安山岩(あんざんがん いわゆる大海崎石)が
 大量に使用され堀尾氏の家紋である分銅型などの刻印が認められる。
 城主は堀尾氏、京極氏と続くが、いずれも嗣子なく断絶した後、松平氏が10代続き1度の戦乱に巻き込まれることなく明治維新を迎えた。
 明治8年(1875)無用の長物と化した櫓や多門など多くの建物はことごとく壊されたが天守だけは旧藩士や豪農の懇請により
 保存されることになり山陰地方唯一の現存天守としてその威風堂々たる威容を今も宍道湖畔に映し出している。
      昭和55年3月 松江市教育委員会」


「しかめっ面をした黒くそびえる屋根の下から、東と南を望むと、
  空を舞う鷹になったように、全市を一目で見渡すことができる
      (小泉八雲 「知られぬ日本の面影」より)」






国宝になってからは初訪問・・・
by sampo_katze | 2018-10-17 21:00 | 山陰・山陽 | Comments(0)